国力を考える②白村江戦と古代日本の国体整備

2011年5月29日

 万葉集巻一雑歌八の額田王歌に、「熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜」(熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな)とある。「熟田津で、船に乗り込もうと、月の出を待っていると、潮も満ちて船出に都合よくなってきた、さあ、今こそ漕ぎ出ようではないか」と現代訳される。「熟田津」は、瀬戸内海航路に面した伊予の築港、現在の愛媛県松山市道後温泉付近である。

 西暦660年、新羅と唐との連合軍によって滅ぼされた百済の遺臣である鬼室福信(きしつ・ふくしん)等は、国の再興を目指して新羅に抵抗運動を仕掛けていた。そのころ、百済最後の王であった義慈王の子息扶余豊璋(ふよ・ほうしょう)は、日本との同盟の人質として日本に滞在していたが、斉明天皇は、鬼室福信の求めに応じ、扶余豊璋に5千人の日本軍を添えて朝鮮半島へ送還した。扶余豊璋は、朝鮮半島において新羅・唐連合軍に対峙する日本・百済連合軍の指揮官となり、663年8月に「白村江の戦い」が始まる。

 斉明天皇は、日本・百済連合軍を増強するために、第一次1万人余(661年)、第二次2万7千人(662年)、さらに第三次1万人余(663年)の将兵派遣を命じ、また前線司令部となる北九州筑紫の朝倉宮に自ら遷皇遷都した。斉明天皇が瀬戸内海を西に向け航海する遷都の途上、同道した額田王によって「熟田津」の歌は詠まれた。

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