国際人のための日本古代史
国際人のための日本古代史(17)

「暗君」と歴史の裁き

関裕二
執筆者:関裕二 2011年7月4日
カテゴリ: 文化・歴史

 政治家は時折、「歴史に判断を委ねたい」と述べる。多くの場合、「歴史に判断を委ね」るまでもない、明らかに誤った判断なのだが、確かに歴史を経るにつれてその人物の評価が変わっていくことがある。
 また、暗君であるにもかかわらず、「正義の人」と誤って語り継がれている者も少なくない。
 暗君は、手柄を横取りし、責任を他人に擦り付ける達人だから、身内や政敵に恨まれても、後の世に偉人と称えられることが少なくなかった。
 たとえば平安前期の権力者・藤原時平(ふじわらのときひら)は、改革を推し進めていた菅原道真を讒言(ざんげん)によって大宰府に左遷し(実質的な流罪)、事業を奪った。藤原時平は改革者として歴史に名を留めたが、菅原道真の祟りに脅え、早死にする。仕事のできる人間を妬み、斥けた藤原時平は、典型的な暗君である。

改革派はどちら?

 暗君ながら、長い間、その実像が覆い隠され、偶像化されてきたのは天智天皇(中大兄皇子)だろう。
 学校で教わった天智天皇は、英雄だった。中臣(藤原)鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺し、大化改新を断行した偉人である。
 しかしこれは、みな『日本書紀』の仕掛けたカラクリを、見抜けなかったがゆえの勘違いである。
『日本書紀』編纂当時朝堂を牛耳っていたのは、中臣鎌足の子の藤原不比等であった。したがって『日本書紀』は、天智天皇と中臣鎌足の功績を美化し、顕彰するために記されたのだ。だから蘇我氏は、大悪人に仕立てあげられた。
 近年、「蘇我氏は実際には改革派だったのではないか」と、史学界がざわめき始めているが、気付くのが遅すぎる。
 歴史学者の門脇禎二氏は、「改革事業はすでに蘇我全盛期に手がつけられていた」と指摘したが、的を射ている。大化改新を断行した孝徳天皇は、蘇我氏の事業を継承したにすぎないからだ。その証拠に孝徳天皇は、蘇我系の人脈で周囲を固めている。孝徳天皇は蘇我の血が薄いが、死後蘇我系皇族が眠る磯長谷(=しながだに=大阪府南河内郡太子町・河南町・羽曳野市)に葬られた。孝徳天皇の姉の皇極天皇は蘇我氏全盛期に擁立されているのだから、2人は親蘇我派と考えた方が自然である。
 かたや中大兄皇子は、皇極朝、孝徳朝の要人暗殺をくり返し、挙げ句の果てに、孝徳天皇を難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に残し、勝手に飛鳥遷都を強行してしまった。
 孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)は、のちの時代の藤原宮や平城宮と遜色のない立派なもので、律令整備の基礎固めのために造られた。だから、遷都は税金の無駄遣いであり、中大兄皇子が反動勢力であったことは、明らかである。
 中大兄皇子はこののち「負けるのがわかっているのに」と非難された百済救援を強行し、日本を窮地に陥れている。これが白村江の戦い(663)だ。
 飛鳥京ののちの近江京遷都に際しても、中大兄皇子は罵声を浴び、身辺で不審火が相次いだ。ようやくの思いで即位するが、中臣鎌足亡き後、重臣に取り立てたのは蘇我系豪族で、これはなぜかと言えば、政敵を懐柔しなければ、政権を維持できなかったからだ。身から出たサビである。憎しみあっていた弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太子に据えたのも、同様の理由からだ。

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執筆者プロフィール
関裕二
関裕二 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)など著書多数。
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