国際人のための日本古代史
国際人のための日本古代史(19)

「死の公表」をめぐるそれぞれの事情

関裕二
執筆者:関裕二 2011年9月5日
カテゴリ: 文化・歴史

 7月上旬、江沢民前国家主席の死亡説が、中国(香港)や日本で報道された。けれども、続報は途切れた。中国共産党からの正式な発表もない。
 癌を患い、体調を崩していたこと、7月1日の中国共産党創建90周年祝賀大会を欠席したことから、重病説や死亡説が広まったようだ。
 安否は定かではないが、生きている証拠もない。影響力が大きい人物だけに、「今死なれては困る」と考えている人々が大勢いるのであろうか。かの国のことだけに、正確な情報がいつ伝えられるのかもわからない。

息子に皇位を継がせるため

「棺掛椎」の伝説が残る古宮大明神址 (筆者撮影)
「棺掛椎」の伝説が残る古宮大明神址 (筆者撮影)

 古代には、「死んだのに死なせてもらえない」人々がいた。  たとえば、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇だ。  仲哀天皇はヤマトタケルの子で、神功(じんぐう)皇后とともにクマソ退治に九州に赴いた。橿日宮(かしひのみや、現在の香椎宮=かしいぐう=。福岡市東区香椎)に拠点を構えると、神託が下り、「クマソにこだわらず、海の向こうの新羅を討て」と命じられた。しかし高台に登って遠くを見やっても、陸地は見えなかった。そこで仲哀天皇は、神が嘘をついていると判断し、クマソ征討を強行し、はね返された。橿日宮に戻った天皇は、急死されてしまう。神の言葉を守らなかったから亡くなってしまったのだと、『日本書紀』は記す。  問題はここからで、神功皇后と大臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)は、天皇の喪を隠し、天下に知らしめなかった。そして武内宿禰は、天皇の屍を船に乗せ、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや、山口県下関市。現在忌宮=いみのみや=神社が鎮座する)に移し、火を灯さず、ひそかに殯(もがり、本葬を行なう前に棺に納め祀ること。荒城=あらき=ともいう)を行なったという。そうして神功皇后と武内宿禰は、何喰わぬ顔で海を渡り、新羅征討を成功させたのである。  仲哀天皇が亡くなられた香椎宮の裏手には、武内宿禰の末裔が集落をなしていたといい、今も1軒だけ「武内さん」の家が残っているが、そのすぐ近くに古宮(ふるみや)大明神址があって、「棺掛椎(かんかけしい)」の伝説が残されている。  仲哀天皇が亡くなられた晩、棺を椎の木に立てかけると、薫風(よい香り)があたりに漂った。そこで宮の名「橿日」は「香椎」に改められたという。棺を立てたのは「御前会議」を開くためだというから、何とも生々しく不気味な伝説ではないか。  死を隠す理由はあった。神功皇后は後妻で、仲哀天皇は前妻との間の子をヤマトに残していた。もし仲哀天皇の崩御がヤマトに知られれば、前妻の子らが、即位してしまう。この時神功皇后は、懐妊していたから、息子に皇位を譲りたいと、野望を抱いたのである。

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執筆者プロフィール
関裕二
関裕二 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)など著書多数。
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