勇退間際の陸軍参謀長が投げつけた「紙爆弾」

執筆者:山田剛 2012年4月8日
カテゴリ: 外交・安全保障 国際

 予備役を合わせて兵力約250万人と世界第2位の規模を持ち、軍事費でも常に上位10カ国にランクされるインドは、文字通りアジア有数の軍事大国である。特に近年は軍事費の伸びが大きく、ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、2007-11年のインドの武器輸入額は世界一(世界の武器輸入に占めるシェア約10%)に躍り出た。12年1月には伝統的友好国ロシアからの10年リースという形ながら、原子力潜水艦「INSチャクラ」を導入。世界で6番目の原潜保有国となった。13 年には弾道ミサイル搭載可能の原潜INSアリハントが就役する予定だ。
 つい最近も、7年越しの審査を経て、次期多目的中型戦闘機126機・総額120億ドルの大型調達計画で仏ダッソー社の「ラファール」に軍配を上げたばかり。先ごろ発表された2012年度予算案では、前年度比17%増、約1兆9340億ルピー(約3兆1000億円、歳出に占める割合はおよそ1.3%)の軍事費が計上された。
 こうした中、5月末に勇退することが決まっているV・K・シン陸軍参謀長が3月、「インド軍の火砲や戦車は弾薬が不十分。空軍の防空能力はまったくの時代遅れ。歩兵には暗視装置も配備されておらず、インドの安全保障は極めて危うい」などとして、マンモハン・シン首相に宛てた手紙がメディアにすっぱ抜かれた。さらに同参謀長はあろうことか、軍用車両の調達をめぐってロビイストから1億4000万ルピー(約2億3000万円)のワイロをオファーされたことまで暴露。自身の前任者らがこうした贈収賄に関与していたことまで匂わせる発言を行なった。国会は大いに紛糾し、野党からはシン参謀長の解任要求が相次ぐことになった。
 インドは隣国パキスタンやバングラデシュなどと違い、独立後64年の歴史の中でただの一度も軍事クーデターが起きたことはない。それどころか、新興国にしてはかなり強固な文民統制が利いているといえる。軍人は基本的に政治に口を出したり、汚職政治家や地方ボスに対しても公の場で悪口を言ったりもしない。
 このV・K・シン参謀長、実はごく最近、自身の年齢問題を巡って国防省と対立、「私の正しい生年月日は戸籍上のものよりも1年遅い」として任期の延長を主張し政府を相手に争った経緯がある(結果は最高裁の判断で「敗訴」)。一連の騒ぎはこの意趣返しとの見方もあるが、彼の主張は決して根拠のないものではない。
 実際、軍の装備はきわめて貧弱で、特に陸軍の歩兵部隊はいまだにカラシニコフ自動小銃を使用。中国の人民解放軍ではほぼ標準となっている暗視装置もレーザー照準装置も配備されていない。ヘルメットやブーツ、防弾チョッキも人民解放軍のそれと比べると重くかさばり、確かに「時代遅れ」は否めない。そもそも攻撃部隊を中心に兵力は定員を20%ほど下回っているという。空軍の主力機はミグ、スホイやミラージュだし、戦車はT-90など旧ソ連・ロシア製およびそのライセンス生産品だ。
 内閣安全保障委員会(CCS)の報告書によるとインド軍が国防上の作戦を遂行するために必要な弾薬の約10%、6000億ルピー(約9700億円)相当分が不足しているという。ヒマラヤ山脈沿いの3カ所(新疆ウイグル自治区に接するアクサイ・チン、ネパール西側のウッタラカンド州北部地域、そしていわゆるマクマホン・ラインにかかるアルナチャル・プラデシュ州タワン地区)で国境が未画定である印中両国国境付近では、人民解放軍が総延長5万キロを超える道路や9カ所の空軍基地、兵舎などを建設しているのに対し、インド軍は大きく後手に回っている。
 こうした状況を踏まえ、シン参謀長の前任であるディーパック・カプール前陸軍参謀長は、2008年11月に商都ムンバイで起きた連続テロの直後、CCSの意見聴取に対し「わが国は戦争準備ができていない」と証言している。
 筆者はこれによって印中両国軍の実力比較を論じるつもりはないし、「もっと軍備を充実させろ」とインドを煽る気もない。だが、こうしたインド軍の現状が明らかになることで、政治家や官僚らがあわててさらに軍事費を積み増すような事態を懸念しているのである。かつて日本の政治家で「多くの貧困層を抱えODAをもらっているインドが強大な軍事力を持つのはいかがなものか」という趣旨の発言をしてインド側をえらく怒らせた人がいたが、インド人はこのような「干渉」を最も嫌うのもまた事実である。
 インドは過去3度にわたって戦火を交えた(1999年のカルギル紛争を含めれば4回)隣国パキスタンをはじめ、国境紛争に端を発した1962年の局地的戦争で大敗を喫した中国、そして国内外のテロ勢力と、多方面で対峙していかねばならない。国家維持における軍の重みは我が国の比ではない。
 引退間際の軍司令官が投げかけた問題提起の波紋は、まだまだ広がりそうだ。(山田 剛)
 

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執筆者プロフィール
山田剛 日本経済研究センター主任研究員。1963年生れ。日本経済新聞社入社後、国際部、商品部などを経て、97年にバーレーン支局長兼テヘラン支局長、2004年にニューデリー支局長。08年から現職。中東・イスラム世界やインド・南アジアの経済・政治を専門とする。著書に『知識ゼロからのインド経済入門』(幻冬舎)などがある。
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