薄熙来の「紅い王朝」(下)軋轢が招いた「挫折」と独立王国での暴走

執筆者:藤田洋毅 2012年7月6日
カテゴリ: 国際
エリア: 中国・台湾
革命歌を歌う「唱紅」運動を主導するなど重慶市党委書記就任後に暴走を始めた薄熙来(c)EPA=時事
革命歌を歌う「唱紅」運動を主導するなど重慶市党委書記就任後に暴走を始めた薄熙来(c)EPA=時事

 見逃してならないのは、薄の政治経歴が、つねに直接の上司との摩擦や衝突に彩られていたという事実だ。最初の任地・金県の上司である陳美良・党委書記から始まり、大連副市長・市長代行・市長時代の曹伯純・于学祥両書記との軋轢は、現地の末端幹部に至るまで周知。2001年、遼寧省長代行・省長に就いてからは、貧農出身のたたき上げ、聞世震・書記と激突した。

最高指導者の名前で上司を攻め立てる薄

 1999年、遼寧の省都・瀋陽を舞台に黒社会も巻き込んだ大型の腐敗が発覚、後に元市長の慕綏新、常務副市長の馬向東らに死刑判決が下った事件は、薄が仕掛けたというのが今や定説だ。薄は「聞が腐敗に関わっていないはずがない」と決め付け、「聞を打倒するため」徹底的に捜査を煽った。ところが、「聞が関わった証拠は、微塵も見いだせなかった」と省党委の元幹部。「それでも薄は聞書記に対抗する姿勢を緩めなかった。省党委常務委員会議は、聞の政策を批判し欠点をあげつらう薄の罵声が響き渡り、2人が激しく口論する場面が増えた」「例えばある日の会議では、薄が党の指導とは、省党委書記が一方的に省政府を指導するという意味ではないとまくし立てた。書記と省長が指導・被指導の関係なら、私は大連に帰ってもよいとまで明言し、でも私が省長になったのは、江沢民総書記と朱鎔基首相の決定ですよと付け加えた」。2人の最高指導者の名前を持ち出して、聞を攻め立てたのだ。
 困り果てた聞は2003年10月、組織部門を主幹する曾慶紅・政治局常務委員(国家副主席=当時)の遼寧省視察の機会をとらえ、辞表を携えて訴えた。「省長と協力できない。任務を果たせない以上、私は省トップとして逃れられない責任がある」。曾は薄も呼び出して2人に和解を求めたが、その後も「薄の態度は一向に変わらなかった」。
 曾は江の意向も鑑み、決断した。2004年2月に薄を商務相として北京に呼び戻したのだ。前妻の父・李雪峰が前年の2003年3月に死去し、首都入りの障害は取り除かれていた。一方、聞は同年暮れ、65歳の引退規定年齢間近ながら、全人代財政経済委副主任という名誉職に回された。現地に禍根が残らないよう、2人とも遼寧省から引き剥がしたのである。「ぎりぎり双方の面子が立つように配慮した曾らしい裁定」と噂された。
 実態は、やや異なる。最近、筆者が当時の複数の遼寧省高官に問い合わせたところ、みなが明かした実情は一致した。「聞さんは、権力に拘泥しない。でも、薄は栄転したのに、聞さんはお飾りに棚上げされたと我々は反発しました」「だからこそ、薄が遼寧を去る直前に省政府主催で開いた茶話会には、省党委常務委員は、たった1人しか出席しなかったのです」。

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