国際人のための日本古代史 (32)

ヤマト建国の歴史が眠る「出雲」の謎

執筆者:関裕二 2012年11月15日
タグ: 日本
10月13日、開催中の特別展「出雲―聖地の至宝―」を訪れ「宇豆柱」(左)をご覧になる天皇、皇后両陛下[代表撮影](C)時事
10月13日、開催中の特別展「出雲―聖地の至宝―」を訪れ「宇豆柱」(左)をご覧になる天皇、皇后両陛下[代表撮影](C)時事

 現在、上野の東京国立博物館で、「古事記1300年 出雲大社大遷宮 特別展 『出雲―聖地の至宝―』」が開かれている(11月25日まで)。長年の考古学の成果が、一堂に会した形だ。  昭和58年(1983)に荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根県出雲市斐川町)で大量の青銅器が発見されて以来、出雲(島根県東部)周辺から新史料の出土が相次いだ。しかも、どれもそれまでの常識を打ち破る発見ばかりだった。  結果、弥生時代後期、出雲が急速に勃興していたことや、ヤマト建国に出雲が貢献していたことが明らかになった。神話のお伽話に過ぎないと無視されてきた出雲は、「確かにそこにあった」のだ。  またヤマト建国の直後、出雲は謎の衰退に向かい、まるで出雲の国譲り神話が事実であったかのような経過を辿っていることもはっきりとした。  しかし、だからといって、これらの新史料が、古代史像を塗り替えたかというと、実に心許ない。「出雲神話は絵空事」という、かつての常識が謎の解明の邪魔をし、ヤマト建国をめぐる謎解きは、邪馬台国論争が中心だから、出雲の入り込む隙間がないのだ。また、「神話」が文学と民俗学の専門分野だったことも、障害になっている。学問の世界にも、学閥と縦割りの弊害が残されている。6世紀以前の歴史を、8世紀の朝廷が知っていたはずがないという史学者の「決めつけ」も、神話を見る目を曇らせている。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
関裕二(せきゆうじ) 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。著書に『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』、『「死の国」熊野と巡礼の道 古代史謎解き紀行』『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪 古代史謎解き紀行』『「大乱の都」京都争奪 古代史謎解き紀行』『神武天皇 vs. 卑弥呼 ヤマト建国を推理する』など多数。最新刊は『古代史の正体 縄文から平安まで』。
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