行き先のない旅
行き先のない旅(35)

東独秘密警察の文書が彼女の心に残した「壁」

大野ゆり子
執筆者:大野ゆり子 2006年4月号
カテゴリ: 国際
エリア: ヨーロッパ

 松本清張や水上勉の推理小説には、戦後のどさくさの中、あえぐような貧困や忌まわしい過去から這い上がって生きるため、やむを得ず犯罪に手を染めていく人々が描かれた。やっと名声をつかみかけた時に、過去を知る人物が現れ、追い詰められた主人公は殺人を犯す。運命に弄ばれた主人公の境遇には、理由なき殺人が横行する現代と違って、どこか同情を誘うところがあったものだ。 現代ドイツの刑事ドラマには、日本の戦後のように時代に翻弄された犯人が、頻繁に登場する。たいていは、STASI(シュタージ)と呼ばれる旧東独の秘密警察に関係したものだ。たとえば、東西統一後に不断の努力をして成功し、人望をあつめ市長選に出馬した、旧東独出身者の前に、突然、脅迫者が現れる。市長候補はかつてSTASIに協力した過去があり、その秘密を知る脅迫者にゆすられ、口封じのために殺してしまう、というようなストーリーだ。 STASIには、約六百万人の人を監視し、記録した文書が残されているそうだ。STASIとの関係を疑われた有名人に、旧東独のスケート選手、カタリーナ・ヴィットがいる。美貌と気品ある滑りで、銀盤の女王の名をほしいままにし、その後もモデルや女優として活躍していた彼女は、STASIから便宜を受けた疑惑で数年前、マスコミに騒がれ、自伝の中で自分の立場を弁明した。

この記事は役に立ちましたか?
フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
この記事をSNSにシェアする
執筆者プロフィール
大野ゆり子
大野ゆり子 エッセイスト。上智大学卒業。独カールスルーエ大学で修士号取得(美術史、ドイツ現代史)。読売新聞記者、新潮社編集者として「フォーサイト」創刊に立ち会ったのち、指揮者大野和士氏と結婚。クロアチア、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランスの各国で生活し、現在、ブリュッセルとバルセロナに拠点を置く。
comment:0
icon
  • 記事の閲覧、コメントの投稿には、会員登録が必要になります。
フォーサイトのお申し込み
逆張りの思考
価値あるバックナンバー
注目記事ランキング
  • 24時間
  • 1週間
  • f
  • 新着
  • 高評価
  • コメント数順