日本にも「指導者」ありけり 吉田茂の「一徹」と「柔軟」

執筆者:佐瀬昌盛 2007年10月号
カテゴリ: 外交・安全保障 書評
エリア: 日本

『回想十年(全4巻)』
吉田茂著
新潮社 1957年刊
(現在、古書としてのみ入手可能)

 第一次吉田茂内閣の誕生は一九四六年五月。日本降伏から九カ月が過ぎていた。以後、四七年五月から四八年十月までの中断ののち、吉田は第二次から第五次まで組閣し、五四年十二月に政権を投げ出すまで、合計七年余にわたり、わが国の指導者だった。全四巻の『回想十年』を読み返して改めて痛感するのは、この時期にこの指導者を持った日本の好運である。なぜそう言えるか。
 敗戦を大磯で迎えた吉田には、どうみても政治的出番への予感も色気もなかった。が、東久邇宮稔彦王内閣の外相に担ぎ出される。これで政治の世界に足を踏み入れてしまい、外務省の先輩・幣原喜重郎進歩党内閣で外相に留任した。ところが、やがて総選挙で鳩山一郎の自由党が勝ち、吉田はご用済み模様、鳩山時代が始まる気配となった。が、そこで鳩山は公職追放を喰らい、非政党人だった吉田が鳩山の懇請で自由党総裁、そして首相に就任する。
 吉田が自分の道を拓いたのでなく、道の方が開けたのだ。もっとも、だからこそ、後年の吉田・鳩山確執の種が芽生える。鳩山には酷な言葉だが、このとき鳩山内閣が誕生しなかったのは、日本の好運だった。それというのも、占領体制下、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とどう渡り合うかこそが政治の中心課題だったからだ。柔順すぎてもだめ、衝突ばかりでもだめ。「誠実さを秘めたタヌキ」という吉田スタイルが最適だったが、これは鳩山には無理だった。後年、日ソ国交回復交渉で露呈したように、鳩山にはよき外交助言者も欠けていた。
 占領期から独立回復までは、外交官出身者でなければ首相は務まらなかったと言われる。事実、幣原喜重郎、芦田均、吉田茂はいずれも外務省出身だった。だが、幣原も芦田も生真面目すぎて、タヌキではなかった。一方でGHQ民政局の「ニューディーラーと呼ばれる革新分子」に辟易しながら、最高司令官たるマッカーサーの心を掴み、親左翼的占領政策に対抗していくという芸当は多分、吉田でなければできなかった。この時代に吉田茂という指導者をもった日本の好運、という所以である。GHQとの折衝の記述が光っているのも、むべなるかな。
 全四巻の本書は一九五七年七月から翌年三月にかけて、新潮社から出た。それからちょうど五十年。第一巻出版は吉田の首相引退からわずか二年七カ月後と、随分早い。そのくせ吉田は「序文」で、世の自叙伝や回顧録の多くは自画自讃かお粗末かで価値なきものと考えてきたし、生来物ぐさの自分には回顧録発表の気持もなかったと書いている。ただ、周囲の切望で筆をとってみると、「内閣の同僚だった諸君」の協力、督励がやる気を誘い、「瓢箪から駒」となったと言う。真情だろう。だが、必ずしも真相ではない。
 実は本書の原型は『週刊新潮』一九五六年十一月十二日号から翌年五月六日号まで、二十五回にわたり連載された。連載予告にも連載完結時にも「総枚数二千枚」とあるから、首相引退から一年十カ月かそこらでそれだけの分量が揃っていたらしい。これを枝葉末節の指摘と言うなかれ。理由は二つある。第一、私は吉田の物ぐさを信じるが、その吉田にして、引退直後から猛烈を極めた回顧録執筆要請の前には早々と軍門に降らざるを得なかったこと。伝統的に回顧文献尊重の気風が薄いわが国では、これは特筆、かつ慶賀に値するできごとだった。
 第二、これは今回気づいた事実だが、連載と四巻本とでは少なくない異同がある。連載分は全編の数分の一だから、ダイジェスト的なのは当然だ。が、両者間には各部分の配列に多くの出入り、変更が目立つ。短いはずの連載時の記述の方が逆に、より執拗な例さえある。その一つが、吉田首相引退後に鳩山政権の手掛けた「対ソ復交」を「綺麗事」とする批判である。批判の語調は連載稿の方がはるかに厳しい。いわく、「か日本侵略唯一国連。中立条約を蹂躪し、突如満洲に侵入し、幾多の同胞を殺し、公私の財産を押え、罪なき同胞を拘置して十年に及ぶ。か乱暴国国交回復媚態急至健忘症驚得」。傍点個所の憤慨は四巻本にはない。
 そのわけは多分、つぎの点にある。連載第四回「日ソの国交回復に憶う」はまさに一九五六年の日ソ交渉進行中に書かれた。他方、第一巻の出版は問題の「日ソ共同宣言」締結から半年後のことだ。そこで吉田は四巻本では、「日ソ国交はすでに回復されたのであるから、復交そのものの可否については今さら論ずる余地はないが」として、いささか鬱憤を抑えた。ただ、この一件も物語るように、引退したからとて吉田は枯淡の境地にいたのではない。第四巻には、ベレー帽、鼻めがね、葉巻、ステッキといったお馴染の小道具ずくめで袴姿の吉田が柔和にほほ笑む写真が収録されている。しかし、その好々爺ぶりから引退後の吉田は「枯れていた」と見るのは誤りである。吉田は自ら敷いた政治路線の進路から決して目を離さなかった。
 その好例が、日本の防衛問題と自衛隊の歩みへの眼差しである。吉田は戦後憲法制定の日本側主役ではなかったが、憲法を受け入れ、改憲論に反対し、その下で一九五一年にサンフランシスコ平和条約と(旧)日米安保条約を結んだ。後者で、「固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」日本が自国の安全のため米国への依存を選択したことの正しさと合理性を、吉田は確信した。貧しく、社会的に不安定だった日本は、その下で経済に専念すべきであった。だから、朝鮮戦争を契機に日本再軍備を求めた米国のダレス外交に吉田は頑強に抵抗した。ただ、いわばその代替策として、マッカーサーの警察予備隊設置の求めには応じた。吉田の在任中にそれは保安隊となり、やがて自衛隊へと脱皮する。それは、吉田路線が産みおとした子である。『回想十年』の吉田は再軍備拒否の決断の正しさを断固主張したが、半面、第二巻や第四巻の記述に見るように、自分が産んだ子の将来、つまり自衛隊に国民の敬愛が集まるかどうかには、気が気でなかった。
 問題は、日本経済の復興と先進国化兆候をみた吉田の心境である。一九六三年刊の『世界と日本』(番町書房)で吉田は、ある時期から(旧)安保体制の段階は「もう過ぎようとしているのではないか……と思うようになった」と書き、安保改訂四年後の六四年秋には、長年心を許してきた辰巳栄一元陸軍中将に「今となってみれば、国防問題について深く反省している。……独立大国となったからには、国際的に見ても国の面目上、軍備をもつことは必要である」と語り、かつ書き送った(辰巳栄一「吉田茂は再軍備に賛成した――書簡が語る晩年の心境」『世界と日本』一九七九年十二月十七日号)。辰巳は、吉田が戦前の駐英大使だった時代の駐在武官で、戦後にも防衛問題で吉田のよき助言者として『回想十年』にいくども登場していた。
 結局、二点が重要だ。(1)『回想十年』自体、戦後日本の政治指導者たちの回想類中でも抜群、最重要の文献である。(2)しかし、吉田の回顧、省察は同書に尽きず、続きがある。引退後の吉田は一旦、驚くほど早く『回想十年』を書いた。が、それで「枯れた」のでは全くない。日本が――吉田の念願した――経済的地力をつけていく過程を凝視しつづけ、求められれば前記『世界と日本』や『大磯随想』(雪華社、一九六二年)、『日本を決定した百年』(日本経済新聞社、一九六七年)などで、自説の変化をも素直に述べた。
 吉田は戦後西ドイツで十四年間も首相を務めたアデナウアーと並んで反共の「頑固一徹」と呼ばれた。両人は確かに似ていた。それを意識した吉田は『回想十年』でアデナウアーに触れ、再軍備問題以外では共鳴し合い、しかもアデナウアーの前に「兜を脱いだ」と告白した。アデナウアー回顧録の訳者として言うが、両人には違いもある。西ドイツの「ワンマン」は最晩年に書いた回顧においても一徹だった。『回想十年』では一徹だった吉田は、なお九年を生きるうちに、世界観、国家観、皇室観はともかく、自分の政策評価については意外に柔軟な面を見せた。
 吉田は、世界を熟知した日本の指導者だった。これを言うのは易しいが、実例を示すのは今日でもかなり難しい。その注文を満たしてくれるのが、五十年前の『回想十年』である。

Sase Masamori●防衛大学校名誉教授。1934年生れ。東京大学大学院修了。成蹊大学助教授、防衛大学校教授、拓殖大学海外事情研究所所長などを歴任。『NATO―20世紀からの世界戦略』(文春新書)、『集団的自衛権―論争のために』(PHP新書)など著書多数。

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執筆者プロフィール
佐瀬昌盛 防衛大学校名誉教授。1934年生れ。東京大学大学院修了。成蹊大学助教授、防衛大学校教授、拓殖大学海外事情研究所所長などを歴任。『NATO―21世紀からの世界戦略』(文春新書)、『集団的自衛権―論争のために』(PHP新書)など著書多数。
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