【ブックハンティング】戦時下『赤毛のアン』を訳した村岡花子の「使命感」

執筆者:草生亜紀子 2008年8月号
カテゴリ: 書評

 アンはおどりながら家の中へはいってきて、叫んだ。「ああ、マリラ、世界に十月という月のあることが、あたし、うれしくてたまらないわ。もし九月から、ぽんと十一月にとんでしまうのだったら、どんなにつまらないでしょうね。まあ、この楓の枝を見てちょうだい。スリルを感じないこと?――つづけざまに、ぞくぞく、ぞくぞくっとしないこと?」 赤毛のアンの息づかいが聞こえてくるような楽しい台詞だが、それを翻訳していた村岡花子は、灯火管制の下、スタンドに黒い布をかぶせた薄暗い部屋で、憲兵に「敵性語」を訳しているところを見つかれば逮捕される危険を冒しながら、出版のあてもない翻訳を続けていた。原書と訳稿を風呂敷に包んで防空壕に逃げ込む生活の中で、いつの日か、この物語を日本の読者に届けられると信じながら。 翻訳家村岡花子の孫であり、東京都大田区で「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」を翻訳家の姉と共に運営する村岡恵理著の『アンのゆりかご』には、一九五二年に初めて日本で翻訳出版されて以来、世代を超えて読み継がれてきた『赤毛のアン』の誕生秘話が綴られている。 本書を読んでから『赤毛のアン』を読み直すと、喜怒哀楽の激しいアンのおしゃべりのひとつひとつを訳す過程で花子が込めたであろう後輩女性たちへの熱い思い、平和への願い、社会変革への欲求が行間から立ち上り、無邪気な子供の物語だと思っていたところが全く様相の違ったものとして読める。

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