国際人のための日本古代史 (6)

戦場はあの「胆沢ダム」周辺 藤原氏がでっち上げた「蝦夷征討」

執筆者:関裕二 2010年3月号
タグ: 日本

「小沢ダム」の異名を取る「胆沢ダム」は、九世紀の東北蝦夷征討の決戦の場にほど近い。多賀城と並び東北経営の拠点となった胆沢城は、胆沢ダムの下流に位置する。 西暦八〇二年、坂上田村麻呂は当地に赴き、阿弖流為を捕らえ、蝦夷の反抗は沈静化する。だが、ここにいたる道のりは、長く険しかった。 蝦夷征討は、八世紀初頭に本格化したから、経略に百年を要している。蝦夷が屈強で、ゲリラ戦を展開したからというのが一般的な見方だが、裏にはもっと複雑な事情が横たわる。 まず、「蝦夷」には実体がない。「蝦夷」という種族がいたわけではなかったのだ。東北地方への入植は、五世紀ごろからはじまり、六世紀、七世紀に本格化した。この結果、縄文的な文化や血は、かなり薄まっていった。八世紀の段階では、東北人は、れっきとした「倭人」になっていたのである。

カテゴリ: カルチャー
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執筆者プロフィール
関裕二(せきゆうじ) 1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。著書に『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』、『「死の国」熊野と巡礼の道 古代史謎解き紀行』『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪 古代史謎解き紀行』『「大乱の都」京都争奪 古代史謎解き紀行』『神武天皇 vs. 卑弥呼 ヤマト建国を推理する』など多数。最新刊は『古代史の正体 縄文から平安まで』。
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