ワークシェアリングで守るユーロ圏の雇用

執筆者:花田吉隆 2010年3月号
エリア: ヨーロッパ

失業率が急上昇する日米を尻目に、驚嘆すべき雇用維持を続けるユーロ圏。各国が「社会の安定」をめざし、様々な工夫を凝らす。

「こうやって道行く人の賑わいを見ていると、ドイツが戦後最大のリセッション(景気後退)に陥ったとは到底信じられない」
 一年前、欧州中銀ビルから窓の外を見ていたある理事の一人は、筆者の方を振り返って笑った。
 それから一年。今回の経済危機は工業生産や輸出の未曾有の落ち込みもさることながら、その後の力強い回復でも際立った。世界経済は傷跡も生々しい中、二〇〇九年第3四半期頃から徐々に回復し始めた。そこで同時に目を見張ったのが欧州雇用の安定ぶりだ。確かに雇用は危機前より悪化し、ユーロ圏失業率は二・五%上昇した。しかしこれだけの経済危機だ。本来もっと深刻になっても不思議ではない。それがこの程度で収まったのは確かに驚きだ。
 もっとも、ユーロ圏と一括りにするのは正しくない。スペインは失業率が急上昇し昨年十一月には一九・五%に達した。しかしドイツ、オランダ、イタリアなどでは失業率はそれほど悪化していない。特にドイツの安定は群を抜く。昨年十二月時点で失業率七・八%は危機前と殆ど同じだ。
 一年前の予想は違った。当時、冒頭の通り街はリセッションのさなかとは思えないほどの明るさで、雇用市場一般はといえば、まだ安定の状況にあった。無論いくつかの企業は倒産の憂き目に遭い始めていた。オペルは結局米GM(ゼネラル・モーターズ)が再建することになったが、当時は身売り話が盛んだったし、大手デパートのカールシュタットを傘下に持つアルカンドーグループは結局倒産せざるを得なかった。
 しかし、そうした安定が崩れるのも時間の問題だと言われていた。雇用市場はタイムラグを伴って変化が襲ってくる。〇八年九月、リーマンショックがあり、それが同年末、実体経済にじわじわと波及し始めた。恐らく数カ月後には雇用市場に波及してくるだろう。具体的にはドイツの場合、〇九年九月に総選挙がある。だから、それまでは与党は何としても失業を押しとどめるだろうが、総選挙後は分からない。企業は大量の首切りに出るに違いない、と当時は言われていた。ところが、総選挙が終わっても失業率はそのままだ。これは驚きだというわけである。

二百四十万人が恩恵に

 その鍵はひとえにワークシェアリングにある。日本でも盛んに行なわれた、解雇をしない代わりに雇用時間を削り、給与減額分の何割かを政府が補填するというものだ。ドイツではピーク時、月に百五十万人がその対象になった。本来であれば多くの企業で大量解雇が行なわれたところだったが、企業は解雇しない代わりに従業員の労働時間を減らした。こうやって解雇を免れた人員が、のべ四十万から五十万人に達するという。
 ドイツだけではなく、EU(欧州連合)諸国全体で二百四十万人が何らかの形でワークシェアリングの恩恵を受けた。その制度は国によって様々で、オーストリア、スイス、フランス、スペインではドイツと類似の制度が導入された。オランダでは、企業がワークシェアリングにより補助金を受給しつつも結局当該従業員を解雇しなければならなくなった時、企業は補助金の半額を国庫に返還しなければならないとしたり、スウェーデンでは、給与補助に代え企業の社会保障費支払期限を猶予した。
 ドイツではこのワークシェアリングに加え「労働時間口座制度」などを組み合わせ、全企業の四分の一が雇用維持のために何らかの工夫をした。労働時間口座制度とは、景気の善し悪しに拘わらず従業員が一定額の給与を受け取れるようにする仕組みで、景気が良い時、従業員は超過勤務をしても超勤手当を受け取らず代わりに各人の「労働時間口座」に「貯蓄」する。逆に景気が悪くなった時、従業員は勤務時間が削減されても各人の「口座」から「貯蓄」を取り崩し、以前と同じ給与額を受け取るという仕組みだ。ドイツ雇用市場の安定はこのような努力の結晶だった。
 こういった、各国による雇用維持努力が、ユーロ圏の失業率をわずか二・五%の上昇に押しとどめたというわけだ。この数字は米国と比較すると違いがよく分かる。〇八年第2四半期からの一年間、米国はGDP(国内総生産)を約四%減らし、雇用も同じく四%減らした。これに対し、ドイツ、イタリアでは、GDP減少は六%に及んだが、雇用の減少は実に〇・五%以下という低水準だった。

財政状況との兼ね合い

 ドイツを初めとする欧州諸国では雇用維持は至上命題だ。かつて、一〇%を超える高い失業率に悩まされ、特に一度失業するとなかなか仕事に戻れない長期失業が大きな社会問題になった。各国はこの失業問題を何とかするため、大きな努力を払った。ドイツではハルツ4法という、失業していた方が働くより得になるそれまでの労働者保護制度を改め、いわば労働市場に競争原理を取り込む改革が実施され、結果としてピーク時に五百万人にまで上昇した失業者数が三百二十万人に減った。ようやく減った失業を何とかして維持したいというのは各国共通の思いだ。何より各国は、労働市場に再び長期失業者が滞留するのを恐れた。
 企業は企業で雇用維持に積極的になる理由があった。これまで不況時、ドイツ企業は雇用調整に走り多くの従業員を解雇してきた。しかし、製造業では高い技術を持った従業員の存在がその企業の競争力を決める。一度解雇すると高い技術を持った従業員の再雇用は至難だ。かくて今回、企業はできる限り従業員を解雇せず、何とか雇用したままで危機を乗り切る方法を模索した。従業員はむろん多少給与が減っても首がつながる方がいい。三者の考えが一致しワークシェアリングが広く普及した。
 このワークシェアリングという施策に対しては、生産性を低下させるという批判がある。事実、欧州中銀資料によれば、ユーロ圏は経済危機を通し生産性を四%以上低下させた。これに対し米国はほぼ不変だ。本来、生産性の低いセクターは経済危機に直面し淘汰され、従業員はより生産性の高いセクターに再配置される。そうやって一国全体の生産性が上昇していく。これを人為的に解雇させず再配置を阻めば生産性が低下するのは当たり前だ。米国は過去十年、生産性でユーロ圏を一%程度上回ってきた。それにはIT(情報技術)の導入、資本集約度の違いもあるが、米国が解雇を恐れず人員再配置に積極的に取り組んだのに対し、欧州ができるだけ解雇せず従業員を維持するようにしてきたことも大きい。しかし欧州は生産性を売って雇用の安定を買う。今回もそうだ。生産性より雇用維持の方が大切というわけだ。雇用維持を社会の安定と言い換えてもいい。
 問題は、ワークシェアリングをいつまでも続けられないことだ。ユーロ圏各国のワークシェアリングは二〇一〇年中に終了予定のところが多い。これが終了したとき果たして景気は十分回復しているだろうか。このところユーロ圏の景気は米国に比べ足踏み状態が続いている。もし回復が思わしくないままワークシェアリングを終了させれば、雇用が悪化することは火を見るより明らかだ。
 しかしユーロ圏の財政も悪化しつつある。EU委員会によればユーロ圏財政赤字は、〇八年の二・〇%から〇九年には一挙に六・四%まで悪化する。ドイツも〇八年はなんとか財政均衡を達成したものの、それもつかの間、〇九年は再び赤字三%超に転落だ。その中でドイツは〇九年、ワークシェアリングに五十億ユーロ(約六千五百億円)を使った。いつまでもワークシェアリングに財政を支出する余裕はない。すでにユーロ圏失業率はじわじわと上昇を続け〇九年十二月、とうとう一〇・〇%の二桁台に乗せた。ユーロ圏の驚嘆すべき雇用安定は、近く正念場を迎える。

Hanada Yoshitaka●一九五三年、北海道生れ。東京大学法学部卒。七七年外務省入省。内閣官房副長官秘書官、内閣官房内閣審議官、在フランクフルト総領事等を経て二〇〇九年七月より現職。

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執筆者プロフィール
花田吉隆(はなだよしたか) 元防衛大学校教授。1977年東京大学法学部卒業。同年外務省入省。在スイス大使館公使、在フランクフルト総領事、在東ティモール特命全権大使、防衛大学校教授などを歴任。
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