行き先のない旅
行き先のない旅(86)

「ゆっくり生きる」ための試み

大野ゆり子
執筆者:大野ゆり子 2010年11月8日
カテゴリ: 国際
エリア: ヨーロッパ

 数年前、イスラエルでホテルに滞在したときのこと。ロビーから部屋に戻ろうと、エレベーターのボタンを押すのだが、扉がなかなか閉まらない。よりによって泊まっていたのは18階。とても階段で行く気にならず、「18」のボタンを立て続けに、いらいらと数回押したが反応がない。ずいぶん間をおいて、ようやく扉が閉まり、安心したのも束の間、エレベーターは1階ごとに停止し、扉はそのたびごとにゆっくりと開閉を繰り返した。故障したのだと思い込んで、フロントに連絡すると、その日は土曜日なので、それは故障ではなく、「シャバット・エレベーターなのだ」と告げられた。
 ユダヤ教では週の1日をシャバット(安息日)と定めている。このため厳格なユダヤ教徒は、金曜日の日没から土曜日の日没まで、一切の労働をしない。機械の操作も労働とみなされるので、ボタンを押してエレベーターを希望の階に止まらせるのも、「労働」に位置づけられる。それなのでボタンを押さなくて済むよう、自動的に各階にゆっくりと止まることになっているそうだ。翌日になるとエレベーターは、瞬く間に18階に着くように戻っていた。

「切断」と「再起動」

 今年になって、この「シャバット」をネットの世界で呼びかけているグループがいる。1週間に1回、ネットや携帯、ツイッター、フェースブックを接続しない日を作ろうと呼びかけるのは、「REBOOT(再起動)」というグループで活動する、ニューヨークを拠点とするユダヤ人クリエーターたち。
「シャバット」ということばを使いながらも、提唱している彼ら全員が、ユダヤ教の厳格な信者なわけではない。名を連ねるのは、映画やテレビのディレクター、エンターテインメント産業やネット業界で活躍する現役のビジネスパーソンたち。普通に考えたら、1番ネットとゆかりが深そうな人々だが、1週間に1回、コンピューターや携帯を「切断」し、家族と過ごしたり、本を読んだり、散歩をしたり、人間らしく過ごすことで、自分の創造性を摩耗させず、「再起動」させようという趣旨で始めたそうだ。彼らが試みに今年3月19日金曜日、「日没から24時間、ネットを切断しよう」と呼びかけてみたところ、想定していた米国内のみならず、宗教や文化を超えて、ヨーロッパから反響があったという。
 ドイツでは数年前、社会学者ハルムート・ローザが書いた「加速」という本が専門書としては異例のベストセラーになった。メールや携帯などで連絡がつくようになったため、誰もが自分自身の予定ではなく、回りの要求に合わせるよう期待され、人間が自分のキャパシティで時間を制御できず、現代の時間はどんどん「加速」しているという考察。ちょうど同時期にフランスやイギリスでも、「のろさの賞賛」「ゆっくり生きよう」といったタイトルの本が賞賛され始めた。その時期に起きた経済危機が価値観に変化をもたらし、スピードよりも人間らしいリズムを考え直す気運も生まれたようだ。
 ファーストフードに反対した、「スローフード」がイタリアで誕生して20余年。その運動が発展し、環境保全につとめる町には、「チッタ・スロー(スローな町)」というカタツムリマークを認定する運動が国際的に進んでいる。この認定を受けたのは、イタリア、ドイツ、ノルウェー、英国、米国、アフリカなど、世界14カ国のいずれも人口が5万人程度の小さな町。景観を大切にし、むやみやたらに開発をせず、地元の食を大切にしながら、観光客に人間的なもてなしすることを目指す、小さい町の生きる道を探る試みだ。アジアからは天然塩を特産する新安、シイタケを栽培する長興など韓国の6つの町が認定を受けた。日本は今のところゼロ。フランスからは、今年初めて、コニャックの産地で有名なシャラント県の小さな町、セゴンザックが認定を受けた。ゆっくりと時をかけて熟成したコニャックだけが最高の芳香を漂わすように、じっくりと町づくりをしたいと市長が意気込みを語っている。

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執筆者プロフィール
大野ゆり子
大野ゆり子 エッセイスト。上智大学卒業。独カールスルーエ大学で修士号取得(美術史、ドイツ現代史)。読売新聞記者、新潮社編集者として「フォーサイト」創刊に立ち会ったのち、指揮者大野和士氏と結婚。クロアチア、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランスの各国で生活し、現在、ブリュッセルとバルセロナに拠点を置く。
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