原発事故が生んだ「住む土地の無い自治体」

執筆者:吉野源太郎 2011年5月6日
タグ: 原発 日本
エリア: アジア

 5月11日に発生2カ月を迎える東日本大震災。復興の歩みはあまりに遅い。被災規模の巨大さ、課題の複雑・多様さに政府の無策が重なる。しかし大震災が投げかける問題は、原発の安全性やエネルギー問題に留まらず、それを取り巻く閉鎖的日本社会、少子高齢化、財政破綻、格差問題、地域経済の危機と、様々に日本の未来の問題を先取りしている。震災復興の課題は日本復興の課題でもある。しかも被災者に与えられた時間はそれほど多くない。被災地の現地取材をまじえ、震災の断面を集中連載として報告する。

すり替えられた「責任」

川内村の村民が自主避難した「ビッグパレットふくしま」での炊き出し準備風景。(筆者撮影)
川内村の村民が自主避難した「ビッグパレットふくしま」での炊き出し準備風景。(筆者撮影)

「本当にそんなことになれば、覚悟を決めますよ。でも、それを考えて手を打つのは本来、自治体の首長の仕事なんですかね」  福島県郡山市の県営イベントホール「ビッグパレットふくしま」の避難所で、川内村の遠藤雄幸村長は苦渋に満ちた顔をさらに歪めた。「そんなこと」とは、放射性物質の汚染によって村に半永久的に住めなくなる事態。「覚悟」とは村民と共に村を永久に捨てるという意味だ。 「早く村に帰りたい。必ず帰る」と繰り返す村長に、「最悪の事態に備えるのも責任ではないのか」と迫ったときのことだ。  川内村は原発汚染の一時帰宅対象地域9市町村の先頭を切って、10日から村民の一時帰宅が許されることになった。村民たちの喜びは大きい。しかし、ここに至るまでの経験に、遠藤村長には割り切れない思いがある。東日本大震災から5日後、村長は村民と共に、ここに移住してきた。川内村は大部分が福島第一原発から20-30キロ圏にあるため、当時、政府から「屋内退避」が指示されていた。村を出たのは、この指示を無視した村長の個人的な判断だった。前日の福島第一原発4号機の火災発生を聞いてすぐに、村民に集団自主避難を呼びかけ、避難所を確保したうえで650人を引き連れて村を出た。 「村民には子どももいるし、とにかく怖かったんですよ、その後の影響が。もし私だけなら、村に残ったかもしれない。生まれ育ったところなんだから」  予想通り、国や県から独断専行とそしられたが、村長の判断は正しかった。国の指示はその後、時間がたつほどに厳しくなっていった。10日後、川内村には「自主避難」の勧告が出され、4月11日になると「緊急時避難準備区域」に格上げされた。躊躇していた他の市町村もやむなく次々と集団移住を始めた。  しかし、国の方針の根拠は今になってもあいまいなままだ。“自主”“避難準備”などという言葉に住民の不安は募るが、基準ははっきりせず、最終判断は結局、自治体の首長に押しつけられる。  背後に政府や東京電力の思惑が絡み合っていることは、誰にも容易に想像がつく。やがて表面化するはずの賠償責任をめぐる計算、東電の経営への配慮……。住民に移住を強制したときに発生する国の賠償責任や東電が本来負うべき責任が、自治体の「自主判断」の責任にすり替えられてしまう仕組みだ。賠償責任問題の落としどころが優先されて、住民の安全を巡る議論は二の次になる。  そうこうするうちに、避難区域はじりじりと拡大していく。原発の状態は「安定化に向かっている」のに、汚染は拡大しているというのだ。ついに郡山市でも、小学校の校庭の汚染された土を掘り返す事態になった。

カテゴリ: 政治 社会
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執筆者プロフィール
吉野源太郎(よしのげんたろう) ジャーナリスト。1943年生れ。東京大学文学部卒。67年日本経済新聞社入社。日経ビジネス副編集長、日経流通新聞編集長、編集局次長などを経て95年より論説委員。2006年3月から2016年5月まで日本経済研究センター客員研究員。デフレ経済の到来や道路公団改革の不充分さなどを的確に予言・指摘してきた。『西武事件』(日本経済新聞社)など著書多数。
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