渡邉恒雄翁に国家を語られる哀しさ

執筆者:喜文康隆 2006年3月号

「あらゆる出来事は、直接あるいは間接に、公然あるいは隠然と、中心部あるいは周辺部で、この古い社会と新しい大衆との関係のなかでおこったのである」(マイネッケ『ドイツの悲劇』)     * 読売新聞の渡邉恒雄から眼が離せない。一月中旬、次期総理の有力候補と目される安倍晋三と会った渡邉は、「靖国神社参拝をしない。そして市場原理主義に迎合しない。この二点を確約しないかぎり君を総理に推さない」と明言したという。良かれ悪しかれ類い希な警世家である渡邉の“市場原理主義批判”は、ここへきて苛烈だ。 一月十日発行の日本記者クラブ会報に掲載された「ファンド資本主義の時代に――教養主義の復活を」と題するエッセーで、渡邉は〈小泉・竹中ラインの市場原理主義の大きな副産物は、村上世彰氏、宮内義彦氏、三木谷浩史氏、小粒だがホリエモンこと堀江貴文氏らの、いわゆるハゲタカ・ファンドの一群の台頭である〉〈竹中氏の金融再生プランは、後に日本振興銀行という怪しげな銀行の創立者となった木村剛氏のイデオロギーに基づくとされている〉と批判した。

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