風が時間を
風が時間を(3)

まことの弱法師(3)

徳岡孝夫
執筆者:徳岡孝夫 2016年6月18日
カテゴリ: 文化・歴史 社会
エリア: 北米 日本

 どこで手に入れたか忘れたが、私は自分がホノルルまで乗っていくアメリカン・プレジデント・ラインズの運賃表を手に入れた。
 勇んで持ち帰り、狭いキッチンのテーブルに広げ、夫婦で両側から覗き込んだ。
 ドル表示の等級別料金を1つ1つ円に換算していく。そして発見した。小さい2人用客室で、横浜からサンフランシスコまでの片道船賃が、新聞社から私が貰う給料の1年分にほぼ等しかった。アメリカへ行ったが最後、1年間働かないと帰れないとは。
 われわれは、しばし無言で、顔を見合わせた。自分は、とんでもない幸運をつかんだのだ。これを逃がす手はない。
 しかし妻がお産を控えていた。お産に男がいて何かの役に立てるわけではないが、結婚後2年ほど船場の父の家に同居している間に、妻は1度流産していた。異常分娩もあり得るし、夫の存在が必要になる場合はあるだろう。私の母は、早く他界し、妻の母も戦後に世を去っている。我が家には、出産時に頼りになる女手がない。
 ただ妊婦本人が、ごく楽天的だった。「あなたがいない方が、かえって気楽だわ」とまで言った。日に1度か2度、団地の4階まで上り下りするのが、かえって運動になるらしかった。
 電話は団地に1台、我が家の階段を降りてすぐに公衆電話のボックスがある。「真夜中でも言うてください」と隣家の奥さんが請合って下さった。
 赤ん坊の産湯はキッチンで遣わせることにしたが、その後の沐浴は近くの銭湯を使うことに決めた。
 よく出来た風呂屋だそうで、母親が綺麗に洗った赤ちゃんを抱いて出てくると、脱衣場との境で受け取って体を拭き、母親が渡しておいたプラッシーなど好みの飲料の瓶を持たせ、あやしてくれる。親はその間にゆっくり入浴し、出て赤ちゃんを受け取る。そういう手伝いを専門にやってくれる小母さんがいるという。無料サービス。まだ頸の据わらない赤ん坊の面倒も見てくれるそうである。
 思い返すと、昔の方がずっと1億総活躍だった気がする。(『新潮45』2016年6月号より転載)

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執筆者プロフィール
徳岡孝夫
徳岡孝夫 1930年大阪府生れ。京都大学文学部卒。毎日新聞社に入り、大阪本社社会部、サンデー毎日、英文毎日記者を務める。ベトナム戦争中には東南アジア特派員。1985年、学芸部編集委員を最後に退社、フリーに。主著に『五衰の人―三島由紀夫私記―』(第10回新潮学芸賞受賞)、『妻の肖像』『「民主主義」を疑え!』。訳書に、A・トフラー『第三の波』、D・キーン『日本文学史』など。86年に菊池寛賞受賞。
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