世界最大の「インド総選挙」観戦ガイド

執筆者:プレム・モトワニ(PREM MOTWANI) 2009年5月号
タグ: インド 日本
エリア: アジア

インドの政治では何が起こるかわからない。その“観戦ポイント”を解説し、壮大な選挙戦の裏側を読む。

[ニューデリー発]世界最大の選挙であるインドの第十五回総選挙がスタートした。日本の衆議院にあたる下院の選挙で、五百四十三の議席(うち百二十議席は指定カースト・部族向け)に対し、五千人以上が立候補する。インドの有権者は約七億人。八十万カ所に投票ブースが設置され、百万台以上の電子投票機が投入される。投票日を五回に分け、約一カ月(四月十六日―五月十三日)かけて選挙を実施することからも、その途方もない規模が分かるだろう。
 インドの代表的な政党には、現与党の国民会議派(以下、会議派)と前与党のインド人民党(BJP)がある。インドでは一九八〇年代まで会議派による一党支配が続いたが、ラジーブ・ガンジー(九一年に暗殺)などのカリスマ的な指導者が去ったことで党勢が後退。もう一つの全国政党であるBJPが、ヒンズー至上主義のイデオロギーを掲げて党勢を伸ばした。今回もこの二党を中心に選挙戦が展開されるが、忘れてならないのが地方政党の存在である。インドの独立直後からカーストや宗教を始めローカルなテーマを掲げる地方政党が多数存在している。九〇年代以降、全国政党が単独過半数を取れなくなったため、会議派かBJPが中心となり、二十以上の地方政党を集めて連立政権を形成するパターンが一般化した。
 近年その傾向は強まっており、地方政党がますます大きな比重を占めるようになってきた。それが一方では「尻尾が犬を振る」、つまり主客の転倒による弱腰政治を生み出し、他方では、各政党が選挙戦の勝利だけを優先して、民衆に迎合したり、わざと物議を醸して世間の耳目を引いたりすることに繋がっている。また、以下に説明するように、金権政治、政治の犯罪化、不正選挙などの諸問題を生み出している。

政界は腐敗や犯罪だらけ

 インドでは、指導者は教育と関係なく生まれるという考え方があるため、立候補に学歴は関係ない。文字の読めない国会議員も大勢いるし、大部分の議員は行政についての知識がない。しかもインドでは「反現政権感情」が強く、毎回約四五%の現職議員が落選する。だから、大部分の議員にはイデオロギーもポリシーもなく、その唯一の目的は、五年の任期中にどれだけ多くの金儲けができるかということにある。選挙後は、連立の中核となる政党を支持する条件として閣僚ポストや高額の賄賂を求めるという駆け引きが一般的で、完璧な金権政治だ。味方が敵に回り、敵が味方となる。インドの政治はまったくルールのないゲームだ。政治の犯罪も年々深刻化している。ちなみに会議派を中心とする現在のUPA政権では二〇%強の議員に犯罪歴があり、十人の大臣と九十三人の議員が現在裁判中である。犯罪も殺人、拉致、強盗など重犯罪が多い。二〇〇二年以降、懲役二年以上の刑罰を受けた者は立候補できないことになったのもそのためだ。
 このような政治腐敗の結果、知識人や誠実な人が選挙に勝つ見通しは皆無に等しい。それは、前回の〇四年総選挙に出た無所属候補二千三百人のうち、当選したのがたった五人だったことからも明らかである。女性の候補者も少なく、議員数も九%程度に過ぎない。かつては独立運動で活躍した人たちが政治家になったため、政治家は高貴な職業とされたが、今や職業倫理のない下劣で腐敗した人というイメージが強い。
 インドの法律では、男性の結婚年齢が二十一歳からなのに、選挙権は十八歳からである。だから、インドでは面白半分に「国よりも家庭の運営・管理の方が難しいからだ」と言う。いま話題を呼んでいるタタ・ティー社の紅茶のテレビCMも面白い。投票を求めにきた政治家に有権者がその資格があるか問う。そこで政治家が自分は投票を求めにきただけで面接にきたのではないと言うと、有権者が国を管理することは最も重要な仕事ではないかと反論、政治家は当惑してしまう。要は、インドの大部分の選挙民がその日暮らしで、現金(買収)や日用品価格の値下げなどのバラマキ公約で投票を決めてしまうため、選挙民に一票の重要性に目覚めるよう呼びかけるCMなのである。このような政治意識の低さや、人口の大部分を占める農村人口が選挙結果を決定づける傾向から、都市の中流層の間には一種のあきらめがあり、都市部の投票率は農村に比べ断然低い。
 さて、今回の選挙の動向を見てみよう。まずは会議派である。九〇年代以降、その党勢は弱まりつつあるが、それはソニア・ガンジー党首、マンモハン・シン首相、ラフル・ガンジー幹事長とも、かつての指導者たちのようなカリスマ性を欠くからだろう。政党としても危機感があり、今回の選挙では無謀な冒険をしようとしている。合わせて百二十議席もある大票田のウッタル・プラデシュ(UP)州とビハール州で、今までさんざん振り回されてきた地方政党と組むことをやめ、単独で選挙に臨むことにしたのである。これらの州ではほとんど党勢を失っているから、再生するなら今しかないということである。有権者の多くが若年層であるため、党公認候補の三〇%を若手にすることも発表している。しかしこれが「諸刃の剣」であることは言うまでもない。
 一方のBJPは、九八年から〇四年にかけて政権を率いたバジパイ首相がすでに引退し、首相候補のラル・クリシュナ・アドヴァニの統率力の無さや、党内抗争が問題になっている。しかもイスラム教徒によるテロが頻発している南アジアの状況を考えると、そのイデオロギーが最大のネックになる。ヒンズー至上主義はBJPの喉に刺さった魚の骨のようだ。吐くこともできなければ、飲み込むこともできない。〇四年の総選挙で、経済面の実績にもかかわらずBJPの連立政権が敗れたのは、〇二年二月にBJPが政権を担うグジャラート州で起きたコミュナル暴動(ヒンズー教徒によるイスラム教徒襲撃事件)のためだったとも言われている。
 また、今回注目を集めているのが第三戦線である。UP州のBSP、カルナタカ州のジャナタダル(世俗派)、西ベンガル州のCPI-MとCPI、タミルナード州のAIADMK、アンドラ・プラデシュ州のTDPなどの主要地方政党が集まり、会議派やBJPとは別に第三戦線を編成すると発表したのだ。
 だが早くも政党間で争いが起き、第三戦線形成の可能性が遠のいている。これらの政党の党首がいずれも首相志望者であるため、エゴの衝突が起きているのだ。しかも、主要政党以外の政党が集まって連立政権を組めるかは、あくまでも選挙の結果次第であり、今回も選挙が終わって蓋を開けてみないと何も言えない。

救いは自由化の継続

 インドでは長年、カーストや宗教上の対立などが差し迫った政治課題だったが、今回はテロ対策とセキュリティ、経済開発と雇用がホットな課題である。昨年のムンバイ・テロ事件以来、パキスタンとの緊張が高まっており、国民の安全は最優先課題である。同時に、ここ数年、急速に伸びてきたインド経済が、昨年からのグローバルな不況のために減速し、政府の統計によると、すでに五十万人の契約労働者が職を失い、失業問題が広がりつつある。
 以前は各政党が「宗教」や「カースト」を切り札として使ってきたが、今やそれらはローカルな課題であっても全国的な課題ではなくなった。そのため、ヒンズー至上主義を売り物にしてきたBJPでさえ今回はそれを前面に出していない。数カ月前の五つの州における地方選でもこの傾向が顕著だった。
 最近、世界で注目された三つの事件は誤解を招きかねないので、解説を加えたい。一つは、西部マハラシュトラ州のMNS党の党首ラジ・タクレイによる北部出身の出稼ぎ労働者排斥運動である。この事件は格差問題と地域主義の台頭として報道された。もう一つは、南インドの地方都市マンガロールのバーで飲酒する女性をラム・セナというヒンズー教団体の活動家が攻撃した事件である。この事件はヒンズー至上主義の台頭と西洋文化への反対として伝えられている。そして、三番目の事件は、BJPの候補者として出馬する故インディラ・ガンジー首相の次男の息子のヴァルン・ガンジー(二九)が、遊説中に反イスラムの煽動的なスピーチをして逮捕されたことである。
 これらはどれも、選挙前に“存在感”を示すことを狙った事件にすぎない。このような無責任な行動が暴動や宗教的な対立を起こすこともあるが、このようなことで暴動が起きても司法に罰せられた前例がないため、彼らは法律を図々しく無視するのだ。ラジ・タクレイはこの件で訴訟中である上、行く先々で野次られ、ラム・セナは全国の女性から抗議の意味で「ピンクの下着」を送られているが、どちらも平気な顔だ。そして、ヴァルン・ガンジーは演説のCDが不正に加工されたものであると主張している。彼らの唯一の狙いは庶民の目を引くことだから、それが達成されれば十分なのだ。残念なことだが、それがインド版民主主義の醜い一側面である。
 ただ、このような側面にもかかわらず、九一年の経済自由化以来、歴代政権は自由化政策、開発、海外投資の誘致などに重点をおいてきた。政権交代してもインドの経済自由化のプロセスが逆戻りする恐れだけはないだろう。新政権も全速力で自由化政策を推し進めるはずだ。会議派が地方政党と組まずに自力で選挙に臨むのも、単独政権で自由化のスピードを上げたいからだろう。

Prem Motwani●インド・デリー生れ。ネルー大学日本語科大学院修了後、同大学国際研究科で博士号取得。一九八〇年よりネルー大学日本語・日本文学研究科で教職に就き、現在に至る。専門は日本の近代史と日本語学。東京大学社会科学研究所への留学経験、国立国語研究所での対外研究員として日本に滞在した経験がある。著書に『インド人が語る ニューインド最前線!』(時事通信社)、『早わかりインドビジネス』(日刊工業新聞社)など。

フォーサイト最新記事のお知らせを受け取れます。
執筆者プロフィール
プレム・モトワニ(PREM MOTWANI)(ぷれむもとわに) 元ジャワハルラール・ネルー大学言語・文学・文化学部日本研究センター教授。1954年生まれ。デリー大卒業後、ネルー大で博士号を取得し、96年、同大教授に。インドでの日本研究・日本語教育の第一人者で、歴代首相など要人の通訳を担当。日本経済も専門で日本型経営をインドに紹介し、2019年の退官後は企業のコンサルティングも手掛ける。20年11月、旭日中綬章受章。著書に『ニューインド最前線』(時事通信社、98年)、『早分かりインドビジネス』(日刊工業新聞社、07年)、『Becoming World Class: Lessons from ‘Made in Japan”』(Bibliophile Publishers、21年)、訳書に『India - The Last Superpower』(平林博元駐印大使著『最後の超大国インド』の英訳。Aleph Book、21年)など。
  • 24時間
  • 1週間
  • f
back to top