行き先のない旅 (86)

「ゆっくり生きる」ための試み

 数年前、イスラエルでホテルに滞在したときのこと。ロビーから部屋に戻ろうと、エレベーターのボタンを押すのだが、扉がなかなか閉まらない。よりによって泊まっていたのは18階。とても階段で行く気にならず、「18」のボタンを立て続けに、いらいらと数回押したが反応がない。ずいぶん間をおいて、ようやく扉が閉まり、安心したのも束の間、エレベーターは1階ごとに停止し、扉はそのたびごとにゆっくりと開閉を繰り返した。故障したのだと思い込んで、フロントに連絡すると、その日は土曜日なので、それは故障ではなく、「シャバット・エレベーターなのだ」と告げられた。
 ユダヤ教では週の1日をシャバット(安息日)と定めている。このため厳格なユダヤ教徒は、金曜日の日没から土曜日の日没まで、一切の労働をしない。機械の操作も労働とみなされるので、ボタンを押してエレベーターを希望の階に止まらせるのも、「労働」に位置づけられる。それなのでボタンを押さなくて済むよう、自動的に各階にゆっくりと止まることになっているそうだ。翌日になるとエレベーターは、瞬く間に18階に着くように戻っていた。

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執筆者プロフィール
大野ゆり子(おおのゆりこ) エッセイスト。上智大学卒業。独カールスルーエ大学で修士号取得(美術史、ドイツ現代史)。読売新聞記者、新潮社編集者として「フォーサイト」創刊に立ち会ったのち、指揮者大野和士氏と結婚。クロアチア、イタリア、ドイツ、ベルギー、フランスの各国で生活し、現在、ブリュッセルとバルセロナに拠点を置く。
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