アラブ政権崩壊の共通パターンを分析する

執筆者:池内恵2011年3月3日

 大規模デモの圧力で政権が崩壊したチュニジアとエジプトに続き、両国に挟まれたリビアでも、カダフィ政権は国土の多くを掌握できないまでの打撃を受けた。たとえ周辺に蓄えた軍事力と資力によって一定期間存続し、国内外に脅威を与えることができても、国民の支持の不在がここまで明白になったことと、国際的な正統性の喪失は、カダフィ政権にとって致命的である。早期に政権内部からの崩壊がなければ、東西分裂が長期化し、統一戦争が戦われることになる。その際にはむしろ「カダフィ派武装勢力」のような扱いを国内外から受けるだろう。
 リビアは元来、東部と西部の間に歴史的・文化的、そして地理的な懸隔がある。近代の帝国主義の時代に、エジプトからパレスチナやヨルダンを中心とした東アラブ(マシュリク)を英国が押さえ、モロッコからチュニジアまでの西アラブ(マグリブ)をフランスが押さえたが、東アラブと西アラブのそれぞれの周辺地域、いわば「隙間」のような領域を、イタリアが植民地化したという経緯で出来上がったのが近代リビアである。そのためそもそも国民統合が脆弱である。カダフィ派と反カダフィ派勢力の間の内戦と統一の過程を経て、国民統合が少しでも進むのを促進するのが、国際社会の取るべき姿勢だろう。反政府抗議行動と反乱軍の中には、部族的・地域的要素は強いものの、それを乗り越えようとする動きも強く見られる。両者のせめぎ合いの中で、新生リビアが生まれてくるのか否か、見守っていくしかない。
 カダフィ政権が軍事力を持って立てこもる場合は、民意を聞く必要がない以上、デモによる圧力だけでは政権崩壊は達成されないだろう。ベンガジを中心とした東リビアが国際的な支援を得ながら統一戦争を戦うという、軍事的な解決しか想定できなくなる。カダフィ政権は、首都トリポリ周辺と、カダフィの故郷スィルトを拠点にして反転攻勢を狙っている。3月2日には油田を擁する都市ブレガを攻撃し、東部キレナイカ地方と西部を繋ぐ交通の要衝アジュダービヤに迫っている。
 これは第2次世界大戦時の「北アフリカ戦線」を想い起させる。リビアを植民地化していたイタリア軍は第2次世界大戦の勃発に際して、イギリスが占領するエジプトに攻勢をかけ、かえってベンガジとキレナイカ地方全域を失う。ここで「砂漠の狐」ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団が援軍に駆けつけ(1941年2月)、3月からトリポリを拠点に機動力を発揮して英軍を駆逐し、スィルト、ブレガ、アジュダービヤといった要衝を次々と陥落させた。4月にはベンガジ始めキレナイカ地方の大部分を制圧する。しかし東部国境に近いトブルクの攻略には翌年6月まで時間がかかった。
 1942年6月にトブルクを制圧した勢いで、そのままエジプト領内に侵入したドイツ・アフリカ軍団を、イギリス軍はエル=アラメインの戦い(42年7月)で食い止め、その後は米国の戦時武器貸与法(レンドリース法)による支援も受けて巻き返していく。1943年1月にロンメルはトリポリの放棄を余儀なくされ、チュニジアに撤退する。ここに西部のトリポリタニア(トリポリ中心)と東部のキレナイカ(ベンガジ中心)を主要な構成要素とするイタリア植民地リビアは連合国の支配下に入った。このことが、第2次世界大戦後のリビア王国の独立につながる。
 ドイツ・アフリカ軍がトリポリを拠点にキレナイカ地方全土を掌握し、逆にイギリス軍が反攻してキレナイカ地方奪還とトリポリ攻略を成功させるまで、両軍が総力で取り組んでも、2年近くかかっている。東部と西部の間に広大な砂漠があり、東部と西部のいずれを拠点とする勢力も、機動戦で敵陣に深く攻め入ることは迅速にできても、兵站維持の困難から膠着状態になりやすい。現在のリビアの統一も、軍事的な解決以外に手段がなければ、同様の期間をかけて戦われることも想定しておく必要があるだろう。

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