愚かな王は人々を不幸にする

執筆者:関裕二2011年5月4日

 才覚もなく無責任な人間が国家のトップに立つことは、けっして珍しいことではない。古代にも、愚かな王が何人も出現していた。たとえば5世紀末の第25代武烈天皇は、あまりの暴虐ぶりに、「大(はなは)だ悪(あ)しくまします天皇なり」と民衆に罵られている。
 ただしこの暴君、実在したかどうか、はっきりとしない。次に即位した継体天皇の存在を美化するために、『日本書紀』編者がわざわざ「悪い王」を登場させたのではないか、と疑われている。
 それよりも、興味深い王の話をしよう。日本ではなく朝鮮半島の出来事だ。百済国最後の王・豊璋(ほうしょう、余豊)で、なぜかこの人物、日本の現首相に、どことなく似ている。
 7世紀の百済は日本の軍事力をあてにしていたから、同盟関係を強化するために、王子・豊璋を人質として差し出していた。来日したのは、舒明3年(631)のことだ。ただし、こののち百済は徐々に国力を落とし、唐に攻められ滅亡してしまう。そこで百済の名将・鬼室福信(きしつふくしん)は、日本から豊璋を呼びもどし、王に立て、国家再興の狼煙を上げたのである。

諫言に耳を貸さず

 ところが豊璋はここから、暴走する。
 まず、打ち出す戦略がことごとく、裏目に出た。以下、経過を『日本書紀』の記述から追ってみよう。
 天智元年(662)12月、豊璋は、居城(州柔城=つぬのさし=)を捨てる。「ここは天然の要害だが、食料の調達が困難だ」と考え、平地の城へ移りたいと言い出す。周囲の者たちの「近くの敵が襲撃してくれば、持ちこたえられない」という諫言に耳を貸さず猪突するが、案の定すぐ敵に攻略され、身の危険を感じ、州柔城に戻ってきたのだった。
 天智2年(663)6月、豊璋は、何を思ったか、鬼室福信に謀反の企みがあると疑った。鬼室福信の名声と人気は絶大で、豊璋はこれを妬み、また玉座を狙われていると疑ったようだ。
 豊璋は鬼室福信を捕縛すると、手のひらに穴を開け、革を通した。そうしておいて、諸臣に「鬼室福信の罪は、すでにこの通りだ。斬るべきか否か」と問いただした。するとひとりが「この人物は悪逆の人です。許してはなりません」と申し上げた。この進言を受け、豊璋は鬼室福信を斬らせ、生首を醢(すし、晒し者にするための塩漬け)にしたのである。
 処刑する腹づもりなのに、処刑すべきかどうかを人任せにしたのは、恨みを買うのを嫌い、責任を負いたくなかったからだろう。
 秋8月13日、新羅は良将・鬼室福信が斬られたことを知り、好機到来とばかりに百済に侵入して、城を順々に攻略しようと動き出した。豊璋は焦って保身に走り、かえって最悪の事態を招き寄せてしまったのである。

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