日本の未来に「東北の体験」をどう織り込むか

執筆者:吉野源太郎2011年5月23日
扇洞にある正寿院。左手の石碑に犠牲者の名前が刻まれている。(以下すべて筆者撮影)
扇洞にある正寿院。左手の石碑に犠牲者の名前が刻まれている。(以下すべて筆者撮影)

 岩手県大船渡市三陸町の海沿いの高台に吉浜字扇洞(おうぎほら)という集落がある。人口1000人余り。ここは東北3県の海岸にあって、今回の震災で犠牲者、家屋被害ともほとんどなかった珍しい地域だ。  集落の中心にある正寿院(写真)という曹洞宗のお寺に、この奇跡の由来を物語る石碑が建っている。建立は1900年(明治33年)4月。歳月を経て碑面はかすれているが、「嗚呼、惨哉、海嘯」と読める文字の下に210人の名前が彫り込まれている。1896年に、この集落の前身「吉浜村」を襲った明治三陸大津波の犠牲者だ。旧制盛岡中学の学生だった石川啄木が修学旅行でここを訪れ石碑を見て泣いた、と同行の友人の日記にあるそうだ。

10年以上かけて高台に移り住む

 当時の村は浜辺の低地にあった。村長、新居武右衛門はこの惨事の後、生き残った55戸約200人の村人たちに海岸から離れた高台への移住を呼びかけた。移住は何回にも分かれて三々五々行なわれたが、結局10年以上かけて全員が、海から50-100メートルの山上に移り住んだ。
 東北・三陸地方では過去1000年の間、何回も大津波に襲われた記録がある。その都度、各地で集落ぐるみの高台への移住が試みられた。今回、震災復興構想会議が、海辺に近い危険な低地を捨てて、後背地の高台に新しい街を作る案を提唱しようとしているのも、こうした経験をもとにしている。
 しかし実は、これら過去の「移住」は結果として少数の例外を除いてほとんどが失敗に終わった。いったん移住しても漁業に不便な高台を嫌う住民が海岸地域に戻ったり、村の外から来た新しい住民や旧住民の次男、三男による分家が低地に住み着いたからだと言われる。
 大惨事の直後の衝撃がどれほど大きくても、時を経て、代が替わるうちにそれは風化していく。生活に便利な低地に土地が空いていれば、「まあ、いいじゃないか」ということになり、そのうち役場や学校も低地に来て、再び低地が集落の中心になってしまう。三陸地方で、今回の大津波が海岸地帯に壊滅的な被害をもたらした大きな原因の1つが、そこにあると言われる。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。