専門家よ、「放射能禍」の東北に再生の知恵を

執筆者:寺島英弥2011年10月6日

 大震災が起きた3月11日以来、地元紙の一記者として現場の報道に携わってきた。東北の南北にどこまでも廃墟の風景が続いた海岸線、誰もが被災者となり、家や働く場、家族を失った住民たち。地方紙の記者にとって、それらの土地は3.11の以前も郷里であり、人との出会いの縁や思い出の深い赴任地であり、地元のまち興しや農漁業、東北で生きる価値ある仕事や文化を生み出そうと頑張る人たちを取材して歩いてきた場所である。
 インパクトのある写真や悲劇のストーリーを切り取ろう、などと思ったことはない。3.11のはるか以前から知る「あの人は、どうしたか?」「あの村の夢はどうなったか?」「あの集落は無事だろうか?」という問いから出発し、人々が「何を失い、これからどう生きようとしているのか?」を伝えようとしてきた。3月22日付から72回を重ねる河北新報社会面連載「ふんばる」のデスク兼取材者として。こうした作業は、1897年の創刊以来、記者が受け継いできた東北の歴史の記録であり、被災者の声を読者や他地域の支援の志へとつなぐ応援でもある。

「私たちは『原発難民』だ」

村全域が計画的避難区域に設定されたことに伴い閉鎖された郵便ポスト。後方は飯舘村役場 (C)時事
村全域が計画的避難区域に設定されたことに伴い閉鎖された郵便ポスト。後方は飯舘村役場 (C)時事

 震災では記者も当事者になった。誰もが生活を直撃され、住まいやライフラインの復旧、ガソリンや食べ物の確保に苦労し、郷里が被災地となった同僚も多い。実家の家族を亡くし、身内や友人、ゆかりある人々の悲報に胸を痛め、帰るべき古里の原風景をも失った。  筆者の郷里は福島県相馬市。福島第一原発(福島県双葉町、大熊町)から北に45-50キロの距離にある。3月12日の1号機爆発以後、原発事故のニュースが日に日に深刻さを増したころ、実家の80代の両親を案じながらも「この歳で、放射能なんて怖くもない」という電話の声に甘え、焦りと憤りのはざまで仕事に追われた。津波による国道や鉄道の不通もあり、帰郷したのは震災発生から2週間後だった。どの記者も抱えるものは同様であったと思う。 「難民の状態だから」。6月ごろ、郷里が福島第一原発に近い職場の先輩にご実家の状況を尋ねた折、返された言葉に胸を衝かれた。その同じ言葉を、8月27日付朝刊の「3キロ圏、5カ月半ぶり一時帰宅」という記事で読んだ。「ずっと放って置かれた家は荒れ放題。もう帰れないと思って、お別れしてきた。古里に戻る希望をなくした私たちは『原発難民』だ。この気持ち分かりますか」。郡山市で避難生活を送る60代の男性の訴えだった。  津波から生還しながら放射能による漁自粛に耐える相馬市の漁業者、「風評を、自らのコメの放射線量を測って晴らしたい」と試験田を作った南相馬市の農家、街に踏みとどまる市民のために毎日の糧を焼き続けた同市のパン屋の主人、「帰村の時、若者が働ける場を守る」と現在も操業を続ける飯舘村の工場主、多くの仲間と馬を津波と原発事故で欠きながら鎮魂の野馬追(のまおい)に出馬し涙した相馬市の騎馬会士――。連載「ふんばる」、震災直後から書いているブログ「余震の中で新聞を作る」の取材で、原発事故のために日常と暮らしを奪われた多くの同郷人と出会ってきた。「現地に通って、放射線は気にならないのか」と言われるが、「古里なんだ。そんなの関係ない」と答えてきた。「人がとどまり、暮らしている限り、記者が声を聴きにいくのは当たり前。今ふんばらずに、いつふんばるんだ?」と。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。