3.11で「無力」を露呈した日本の統治システム

執筆者:田中直毅2011年12月12日
無残な姿をさらす福島第一原発4号機の原子炉建屋(11月12日撮影)(C)時事
無残な姿をさらす福島第一原発4号機の原子炉建屋(11月12日撮影)(C)時事

 3.11の東日本大震災は、2011年の師走になっても総括しきれない課題を残したままだ。大津波による災害からの復興と、福島第一原子力発電所の冷温停止および廃炉までの工程表作成の2つについて言えば、中長期の射程からは何も前進したとはいえない。3.11が切り開き指し示したのは、日本政府の機能不全であった。戦後日本の総括については、戦後のそれぞれの段階でわれわれは1つひとつの区切りをつけてきた気になっていた。しかし、日本の未来から焦点を当て、課題を浮き彫りにしたうえで、そうした課題への取り組みを足元から開始するという手法は、実際にはまったく定着していなかったといえる。ひとつには日本の行政に基本的に欠ける視座のゆえといえよう。しかし原因は他にもある。過去への心情的なこだわりから「何事も学ばず」に至るか、事態を先送りして「何事も思わず」という態度に終始するのか、という思考の乱れと課題からの逃避とが国民の内にもあったといわねばならない。3.11はその総体を表現してきた日本政府を厳しく打ち据えた。

55年体制の実質

 戦後の66年を敗戦直後からの20年間、今日から遡る冷戦終焉後の20年間、そしてその間に挟まる26年間に分けてみると、国民による自己統治という論点からの整理がしやすい。
 1965年までの20年間は、歴史における日本の位置づけが依然として大きなテーマであった期間といえる。そして1960年代半ば以降から冷戦構造の崩壊までは、もうひとつの「日本帝国」がつくりあげられた四半世紀といえる。そして直近の20年間は現状打破の試みはそれなりに続けられたものの、国民による自己統治の形質は決して相整うことがなかった時期に当る。3.11が切開したものは、「日本帝国」の部分であり、また「構造改革」の取り組みが不十分なところであったといえよう。われわれはその総体についての認識を点検するところから始めねばなるまい。
 敗戦後の日本のガバナンスはGHQが担った。当初は日本軍国主義の解体が主要な作業であった。日本国憲法の制定過程では、当時の日本側の指導者の主張もそれなりに取り入れられた。たとえばGHQ案では1院制であったが、貴族院と衆議院の2院制度を採用してきた明治憲法のもとでの議会制度へのなじみを理由として衆参両院の2院制度に組み替えられた。それについては参議院の実体のその後の変遷のなかで、いわゆるねじれ現象が1990年代以降の日本政府の常態と化すに至った。今後のガバナンス改革を考えるうえで日本的修正の帰結については皮肉なことといわねばならない。
 戦中の日本のガバナンスを担った層は公職追放(パージ)の対象となったが、冷戦の開始とともにGHQの方針は覆される。そしてパージが解除されると、旧指導層は再びガバナンスの担い手として次々と復活した。そうしたなかに「戦い足りなかった」と自己総括する人物たちもいた。「何事も学ばず、何事も忘れず」という戦中派は自主憲法の制定を掲げて政治勢力を構成することになる。これに対して「再び戦場に子供を送るな」という戦後民主主義の申し子の運動も起きることになる。朝鮮半島では「熱戦」が生じ、米軍は必ずしも勝利を収めたという状況でもないところで朝鮮戦争は休戦となる。ここから国内の政治勢力は緊張度は低かったものの、ある種の「代理戦争」という様相を帯びることとなった。戦後民主主義を守るというある意味での保守主義がいわゆる革新陣営の特徴となったのだ。旧秩序への憧憬を隠さない体制派と戦後導入された諸制度の保守に熱心な反体制派の関係が「55年体制」と呼ばれたレジームの実質的な内容であった。将来を見据えてガバナンス改革を行なうという視点は、登場の機縁を持ち得なかった。

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