「人間の安全保障」論の陥穽

執筆者:平野克己2011年12月18日

 開発援助政策は「なぜ援助するのか」の理由を探しながら進められているが、ひとつの理由が危うくなると、援助を削減するのではなく、また新しい理由を探すのだ。こんな政策はほかには存在しない--1960年代にサミュエル・ハンチントンはこう言っていた。

「人間の安全保障」という考え方がある。安全保障の主語はいつも国家だったが、国家安全保障の名の下に人権が蹂躙される例は事欠かない。保障されるべきは人間であって国家であるべきではない、という考え方だ。まったくもって正論である。2001年に「人間の安全保障」委員会が創設され、緒方貞子とアマルティア・セン両氏が共同議長に就任して、この理念は国際社会のなかにビルトインされた。日本のODA大綱のなかにも明記されている。
 高い理念ほど凡人には足元しか見えなくなる。「人間の安全保障」理念からどのような開発プログラムを作るかという、いってみればラベル貼りが始まることになった。

 この理念の本旨は開発の本質を捉え直すことにある。「なぜ開発が必要なのか」を、より高い次元から定着させようという議論なのである。だから、どこをどういじくっても政策は出てこない。かつて1970年代にも同じようなことがあった。「基本的人間ニーズ」(BHN)論だ。ベトナム戦争の泥沼に落ち込んだアメリカで、戦争遂行の一手段とみなされるようになった開発援助政策の法案が議会を通過できなくなり、政治色をいっさい脱ぎ捨てた援助理念として登場した。貧困に苦しむ人々の、人間としての基本的な欲求を満たすためにアメリカは援助するのだという使われ方をしたのだが、それで始まったのがエジプトとイスラエルに対する重点援助だった。今度は、中東和平政策の手段になっていったのである。社会科学においては、なにが言われているかよりも、なぜそれが言われているかを探究することのほうが重要なのである。

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