「2011」という年の世界史的意味

執筆者:池内恵2011年12月31日

 「2011」という年が締めくくられようとしている。2011年は、日本人一般にとっては東日本大震災の年として何よりも記憶されるのだろうが、やはり私にとっては、ひたすら「アラブの春」に明け暮れた年だった。

 1年がたって、日本ではアラブ諸国の状況に関して懐疑的な声が多く見られる。それら懐疑的な声の根拠は曖昧でしばしば真意を把握しがたいが、総じて言えば「「革命」というが、政権が倒れただけで、いったい何が変わったのか?」という疑問と、「「民主化」と喜んだが、これまでにどれだけ民主的な体制が実現したのか?」といったものだろう。

 「革命」が、共産主義的な階級革命をのみ意味するのであれば、確かに、チュニジアでもエジプトでも、社会経済的な階級関係・構造の大規模な変化や、支配的な階級から別の階級への政治権力の移動も体系的には起きていない。

 「民主化」は、例えば政治参加や政治的異議申し立ての制度の確立、活発で機能した政党政治、選挙と議会の機能の定着、民意に従った政権交代の実現といった様々な要素を含むが、それらが定着していくのか、予断を許さないのは確かだ。

 しかし「革命」も「民主化」も、極めて長い時間がかかるものであり、そもそもが1年で決着がつくはずはない。ブラジル、韓国、インドネシアといったこれまでの権威主義体制からの民主化の事例を見てみればよい。それらが少なくとも5年、長ければ10年を超える、しばしば後戻りや混乱を伴う蛇行したプロセスであり、それらの国でもそのプロセスは未だに完了したとは言い切れない。

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