「政治」を再定義するために

執筆者:宇野重規2012年1月23日

 震災と原発事故への対応にあけくれた1年であった。2011年は日本にとって、大きな転機となった年として記憶されるであろう。ただし、巨大な不幸にもかかわらず、そこから少しでも前に進もうとする始まりの1年であったのか、それとも災害の重みに耐えかねて、下り坂を転げ落ちる決定的な1年であったかは、まだわからない。前者であって欲しいと思ってこの1年を過ごしたが、後者ではないかという思いも脳裏をよぎる。
 そこで何よりも問われたのは、「政治」であろう。政治とはいったい何なのか、何の役に立つものなのか。限られた人的・物的資源や財政制約のなかで、それでも国民のもてる力や思いを災害復興のために結集しなければならない。そのためのリーダーシップをとるのが政治の役割であろうと誰もが期待した。そしてその期待はいまや虚しいものになりつつある。いわゆる「政治」とは、どこか国民の実情とずれたところで展開されるものではなかろうか。そのような疑念が蔓延しつつある。

「現場」と「日常」から政治を問い直す

 おそらく、私たちはいま一度、「政治」とは何なのかを問い直す必要があるのだろう。それも問題が起きているまさにその「現場」や、あるいは私たちの日々の実感や手の届く「日常」から、政治の意味を再定義しなければならない。そうでなければ、議論は虚しくなるばかりであり、すべてを否定したいという暗い情熱へと私たちは引きずられていくであろう。ヒントとなりうる事例を2つとりあげたい。
 第1は被災地のある自治体職員の話である。仮にMさんとしておこう。Mさんは筆者にとって旧知の人物であり、これまでも地域の将来を語り合ってきた関係である。そのMさんは、今回の震災にあって、まさに災害対応の第一線に立って獅子奮迅の活躍をされている。震災直後の救援・避難から仮設住宅の建設・入居まで、Mさんは文字通り、不眠不休で陣頭指揮にあたった。
 しかしながら、自治体役場に寄せられる声には厳しいものも少なくなかった。行政への対応要請が山ほど寄せられると同時に、その不備へのクレームや公平性についての疑念も殺到した。Mさんは、自らクレームへの対応にあたると同時に、自分の不在時に代わりに対応する担当者に心がけさせたことがあるという。

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