「返還から15年」香港はどこへ向かうのか

執筆者:樋泉克夫2012年6月20日
返還から15年になる香港。「繁栄の維持」は達成されたが……(c)AFP=時事
返還から15年になる香港。「繁栄の維持」は達成されたが……(c)AFP=時事

 その刻を挟んだ数日間、香港では、そぼ降る雨が止むことはなかった。  1997年6月30日深夜、チャールズ皇太子、パッテン総督とその家族を乗せた帆船ブリタニア号は雨降る漆黒の海に向かって英国海軍基地岸壁を離れた。植民地最後の総督を務めたパッテンの手には、1842年に締結された南京条約によって植民地となって以来1世紀半近くに亘って香港に翻っていたユニオン・ジャックが抱かれていた。やがて時計の針が夜中の12時を過ぎると、植民地としての香港に幕が引かれた。  明けて7月1日、香港は中華人民共和国特別行政区として生まれ変わる。当時、権力の絶頂期にあった江沢民主席は主宰者として特別行政区発足式典に臨み、「香港という中国の土地が紆余曲折を経て、ついに祖国の内懐に戻ってきた」と胸を張ってみせた。毛沢東も鄧小平もなしえなかった偉業の達成に、江もまた興奮に酔い痴れたことだろう。  思い返せば、今年は世界中の耳目を集めた香港返還(中国は「中国回帰」と呼ぶ)から数えて15年になる。

「香港の死」

 返還までの数年間を「過渡期」と位置づけた北京は、香港の有力企業家を返還作業に関する新設の政治ポストに任命するなど、返還が北京ペースでスムースに進んでいることを内外に印象付けようとした。後にパッテンが『東と西』(共同通信社、1998年)で「英国植民地に対する反感は、民主主義と市民的自由への情熱を上回るほどになっていたのだ。そこで、主権の移譲が進むにつれ、(中略)いつのまにか英国という植民地権力から、中国というもう一つの植民地権力へと集団脱走してしまった」と苦々しく回想するほどに、企業家のみならず社会各層の指導者が北京に擦り寄っていった。
 香港経済の中核である不動産業界は空前の活況を極め、植民地の最後を味わおうと多くの観光客が香港に押し寄せる。かくて返還バブルとでも呼ぶべき情況が巻き起こりはじめていた1995年、経済誌「FORTUNE」(6月26日号)は衝撃的な論文を掲載した。ルイス・クラー記者の「THE DEATH OF HONGKONG(香港の死)」である。彼は鄧小平が世界に向かって約束した「一国両制」による「香港の繁栄の維持」や「香港の50年不変」は絵に描いたモチの類であり、返還後の香港は共産党政権によって“扼殺”される危険性ありと警告したのだ。香港という金の卵を産む鶏は、いずれ殺される。

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