タイのインラック政権は、“海外亡命中”のタクシン元首相の本格帰国に向けて舵を切ったようだ。というのも7月3日の閣議でパンサック・ウィンヤラット(1943年生まれ)を首相首席顧問(政策担当)に任命したからである。
「元ジャーナリスト」「影の実力者」などと紹介されることが多いパンサックだが、1970年代半ば以降、ことに80年代末期から現在まで歩いてきた道を辿ってみれば、彼が単なるジャーナリストでも影の実力者でもなく、タイの政治舞台における脚本家兼演出家であり、時には主役ですらあったことが判るだろう。

チャーチャーイ政権で辣腕を揮う

 彼は1970年代の学生活動家として知られ、70年代末の軍政時代の一時期、ハノイに亡命していたこともあったようだ。タイが高度経済成長に向けて離陸した88年、十数年ぶりの文民政権としてチャーチャーイ政権が誕生するや、彼は首相顧問に就任し、「タイ改造」に乗り出す。首相顧問就任の背景には、彼とチャーチャーイの個人的関係があったといわれている。筆者が彼に直接問い質した際、彼は「ハノイ亡命中の自分を保証人となってタイに呼び戻してくれたのが、首相就任前のチャーチャーイだった」と語っていた。
 チャーチャーイ首相首席顧問就任後、彼は「パンサック・チーム」とも呼ばれる首相直属の政策集団を結成し、従来の政策決定システムを半ば無視した形で内政改革と外交における野心的な政策を推し進めた。経済担当のソムキット(曾漢光)、外交のスラキアットなど後のタクシン政権の中核を担うことになる人材を集めた彼は、先ず内政では国有企業の民営化を断行し、国有企業に巣くっていた国軍を中心とする“シロアリ”の排除に乗り出した。一方、「インドシナの戦場を市場に」というスローガンを掲げ、外務省の頭越しにカンボジア政府と交渉し、フン・セン現首相を軸とする勢力との間でカンボジア和平工作を強力に推進した。80年代末期から90年代初めにかけ、日本の外交当局がカンボジア和平交渉でリード役を果たせたのも、彼による地ならしがあったからこそ、という評価もある。
 だが好事魔多し。91年2月、国軍の総力を挙げたクーデターでチャーチャーイ政権は崩壊し、一時、彼は地下潜行を余儀なくされる。パンサック・チームに面子を潰された形の国軍と官僚にとって、憎んでも余りある人物こそ、パンサックではなかったか。当時の情況を振り返れば、クーデターの標的はチャーチャーイ政権ではなく、パンサックであり彼の率いた政策集団だったに違いない。それほどまでに彼は内政・外交両面に辣腕を揮ったのだ。

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