台湾に龍應台(ロン・インタイ)という名前の女性作家がいることを知ったのは20年ほど前だった。筆者は台湾の大学に留学していたのだが、同じ年代の台湾人学生たちが競って彼女の作品を手に取り、論じ合っていたからだ。
 1985年、30代で無名だった彼女が著した「野火集」というコラム集は、国民党の独裁体制の欠陥を鋭く射抜き、同書は題名のごとく台湾社会を焼き尽くしながら大ベストセラーとなった。彼女は当時の台湾社会において、紛れもなくひとつのイコン(偶像)だった。
 以来20年以上にわたり、龍應台は台湾、香港、そして中国大陸の中華文化圏で最も影響力のある作家の1人として活躍してきた。2006年、中国共産主義青年団(共青団)の機関紙「中国青年報」の付属紙「氷点週刊」が、歴史認識をめぐり停刊処分を受けた事件では、中国の胡錦濤国家主席にあてた公開書簡「文明で私を説得して欲しい」で話題を呼んだ。その龍應台が2009年10月、満を持して発表した大作が「大江大海 一九四九」(天下雑誌社)だった。

それぞれの「1949」

 龍應台が同書で向き合ったテーマは、中華社会を引き裂き、激動させた1949年という1年であり、いまも消えない「歴史の傷口」であった。  内戦に敗れて200万人を超える人間が台湾に渡った。彼らは外省人と呼ばれ、国民党は台湾の支配階級となったが、貧しい軍人・公務員がその大半を占めていたのも事実だ。龍應台自身も、台湾南部の普通の外省人家庭に育った。龍應台の「台」という名前にも1949年がしっかりと刻まれている。  龍應台は自分たち外省人を「失敗者」と位置づけ、両親の歴史をつづると同時に、大陸から来た外省人の老兵たちに会って、それぞれの「1949」を描き出した。ノンフィクションでもあり、エッセイでもあり、歴史文学でもあると言われる同書は、台湾・香港などで約50万部を売り上げる一方、中国では「革命史観」の否定として現在まで「禁書」となっている。  同書はこのほど、白水社より「台湾海峡 一九四九」というタイトルで日本語訳が刊行された。台湾で5月に発足した2期目の馬英九政権で、初代文化部長(文化大臣)に就任したばかりの龍應台に、日本での出版に向けた思いを語ってもらった。    ――「大江大海」は中国で禁書になっていますが、著者として中国人たちにも読んでほしいのではないですか。    書いた時点からこうなることは予想していました。もちろん中国大陸の読者がこの本を読めることを熱望しています。ただ、あとがきにも書きましたが、思想を封じ込める社会において「刊行できない」ということは、もはや1つの文学賞のようなもの。中国大陸では大量に海賊版が出回り、この本を買い求める中国人旅行客のおかげで香港の空港ではトップセールスとなりました(笑)。

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