『中国との格闘 あるイギリス外交官の回想』
パーシー・クラドック著/小須田秀幸訳
筑摩書房 1997年刊(原書は1994年刊)
『中国との格闘 あるイギリス外交官の回想』 パーシー・クラドック著/小須田秀幸訳 筑摩書房 1997年刊(原書は1994年刊)

 キッシンジャーは「無視するには大きすぎ、抱き締めるにはあまりに抑圧的であり、影響を及ぼすのは難しく、この上なくプライドが高い、という特別なカテゴリーに属する」とのオルブライト元米国務長官の中国評をそのまま引用し、中国を語っている(『キッシンジャー回想録 中国』、岩波書店、2012年)。国際政治の修羅場を数多く潜り抜けてきた彼にとっても、中国は外交ゲームの定石が通じない、あまりにも手強い相手だったということだろう。おそらく1972年にニクソン・毛沢東会談を成功させて以来の、彼なりの長い中国体験に基づく率直な感想に違いない。  この本は、タフで老獪このうえないキッシンジャーですら戸惑わせてしまうような中国を相手に、文字通り「格闘」し続けた「あるイギリス外交官の回想」である。だが、たんなる「外交官の回想」ではない。飽くまでも「中国との格闘」に30年(1962-1992)をかけた「イギリス外交官の回想」なのだ。

文革から香港返還交渉、天安門事件まで

 1923年生まれの著者はケンブリッジ大学卒業後に英国外務省に入省。66年から69年というから文化大革命がもっとも激しく展開されていた時期に、在北京の英国代理大使館政治担当参事官、代理大使などを務めている。この間、文革最過激派は世界各国に置かれた中国大使館を拠点にして外交慣例無視の過激で身勝手な「文革外交」を展開し、世界の非難を浴びている。その象徴的出来事ともいわれる紅衛兵による北京での英国大使館焼き討ち事件に遭遇した著者は、その事後処理に当たった。
 以後、駐東ドイツ大使、ジュネーブ代表部勤務を経て、「『北京駐在全権大使』として再び中国の土を踏むことになった」のが78年。この年の末、鄧小平は毛沢東の政治を否定し、共産党の路線を革命から経済――「自力更生」「為人民服務」から「先富論」「白猫・黒猫論」へと大きく切り替えている。以後84年までの前後6年の間、改革・開放初期の中国を現地で観察する一方、鄧小平に督戦された中国側外交当局を相手にハードな香港返還交渉を纏めた。
 84年から92年の間はサッチャー、メージャー両首相の外交顧問に加え、総括責任者として英国諜報部門を取り仕切った。また両首相の特使として秘密裡に訪中し、89年の天安門事件後の英中関係や返還を前にした過渡期における香港問題処理を第一線で担当した。
――このように人名事典風に綴ってみれば、英国の対中外交における著者の立ち位置が判るだろう。

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