なぜ百人一首には「駄歌」が多いのか

執筆者:関裕二2013年1月8日

 正月といえば、小倉百人一首(以下、百人一首)を思い浮かべる。かつてのように、一般の家庭で百人一首を楽しむ機会は減ったが、初春の風物誌として、競技カルタの様子が、テレビで流される。一見、雅なイメージの百人一首だが、実は大きな謎を秘めている。

 

歌聖・藤原定家が編んだのに……

 百人一首は、藤原定家による私撰和歌集で、嘉禎元年(1235)ごろ成立した。鎌倉幕府が勢いを得る一方で、朝廷の権威が凋落していく時期だ。

 百人一首は、天智天皇から後鳥羽院の子・順徳院にいたる百人の歌を一首ずつ集めたものだ。蓮生入道(れんしょうにゅうどう、宇都宮頼綱。もと鎌倉幕府の御家人)の依頼を受けた藤原定家が、嵯峨・小倉山の山荘(京都市右京区)の襖障子に色紙形を書いて並べたものだ。カルタ遊びとなって普及したのは、江戸時代のことだ。

 百人一首は「歌聖」と称えられた藤原定家が編んだのだから、すべて名歌と想像しがちだ。ところが、意外にも、歌集としての出来映えは、お世辞にもほめられたものではない。正岡子規も酷評したように、駄歌が多い。そのため、「本当に藤原定家が歌を選んだのか」と、長い間疑われてきた。ただし、昭和26年(1951)に藤原定家の『百人秀歌』が発見され、百人一首によく似た内容だったため、疑惑は晴らされたのだった。

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