『ソロモンの偽証(Ⅰ-Ⅲ)』
『ソロモンの偽証(Ⅰ-Ⅲ)』

宮部みゆき著
新潮社

 文芸評論家でもミステリー作家でもない私に、この本の書評の依頼が舞い込んできた。おそらくは、社会学者として教育の問題を論じ続けてきた立場から、本書がどのように読まれるのかを期待してのことだろう。たしかに本書は、中学生の死をめぐって展開する物語であり、そこには、いじめ、生徒同士の複雑な人間関係、さまざまな教師群像と学校の「体質」、マスコミや警察と教育現場との関係など、昨今の「教育問題」を語る上で欠かせない、時代性と社会性とを備えたテーマが数多く含まれている。ミステリー小説という体裁を取りながらも、本書が提示する問題性は、教育社会学者である私にも評論可能なテーマである。文学作品としての評価はできないとしても、そういう立場からなら書評を書ける。しかも、私自身、デビュー以来の宮部ファンであり、奇しくも著者と同じ高校の卒業生であるという偶然も手伝って、今回の書評を引き受けることとした。

 

なぜ「学校内裁判」なのか

 本書の何よりの特徴は、1人の男子中学生の死を、「学校内裁判」という形式を通して謎解きしようとした点にある。生徒たちが、それぞれに判事、検事、弁護人、陪審員といった役割を演じる。そして、被告となった生徒の容疑を解明する形をとりながらも、有罪無罪を争うのでなく、事件の真相に迫ろうとする展開になっている。学校内裁判という舞台設定のうえで、登場人物たちによって(ということは元をただせばこの小説の作者によって)どのように事件が語られていくのか。社会学の用語を使えば、「問題」がいかに社会的に構築されていくのか(how socially constructed;かみ砕いて言えば、人びと=社会がいかにして、ある出来事を問題や事件として見なすようになるのか)。そこに焦点を当てることが、教育社会学者の立場から、この本を評論するポイントになる。

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