天皇陵発掘を「50年」待つべき理由

執筆者:関裕二2013年3月15日
 2月20日、箸墓古墳への初めての立ち入り調査が行なわれた (C)時事
2月20日、箸墓古墳への初めての立ち入り調査が行なわれた (C)時事

 2013年2月20日、奈良県桜井市の箸墓古墳と天理市の西殿塚古墳で、立ち入り調査が行なわれた。邪馬台国の卑弥呼と台与(とよ)の墓ではないかと疑われている前方後円墳である。

 宮内庁が管理していて原則非公開だが、学会の要望によって、今回許可が出された。ただし、墳丘の下段を歩いてまわるだけで石室には入れなかったから、大きな成果は期待できない。

 それにしても、なぜ宮内庁は、陵墓を公開しないのだろう。かたくなな態度に、理由はあるのだろうか。

 じつは戦後間もなくの時期、発掘のチャンスはあった。昭和24(1949)年3月31日、英字紙『ニッポンタイムス』は、ライシャワー博士と高松宮が天皇陵発掘について意見交換したことを伝え、いずれ発掘されるだろうと報じている。4月27日には読売新聞が、国際的援助を受けて、仁徳陵を発掘すると書き、天皇陵発掘の気運はにわかに高まった。

 ところがここで、考古学者の側が尻込みし、反対したのだ。皇国史観(正統史観)を唱え続けてきた戦前・戦中の学界の因習と伝統が、まだ生々しく残っていたということだろうか。ちなみに、戦争中、唯一皇国史観に楯突いた津田左右吉は不敬罪に問われ、裁判となった(ただし、結審する前に敗戦を迎えた)。『神社新報』は5月9日に、読売新聞を批判する記事を載せた。「陵墓の神聖」「暴論」「異常な憤激を呼ぶ」などと過激な言葉を並べた。

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