大東亜戦争開戦前において帝国陸軍は、ロシア(革命後はソ連)を仮想敵として大陸に軍事力を指向した。他方海軍は、軍事予算獲得のためとも言われるが、仮想敵をアメリカとして太平洋に軍事力を展開した。これは、「オレンジプラン」が日本を仮想敵としたアメリカの「戦争計画」であったのだから見当違いではない。

 こうして帝国陸海軍は、開戦後、その作戦の多くを陸・海軍協同することなく進めた。国力・軍事力共に米軍を旗頭とする連合軍に劣勢であった状態で、しかも陸軍、海軍それぞれが勝手な戦いを展開したのであれば勝ち目も薄く、いたずらに軍事力の損耗を招くのは当然であった。

 地政学的に戦域の縦深性を考えれば、大陸と太平洋2正面への戦略的展開可能な国力を日本が備えていなかったことは自明であり、しかも陸海軍が自分の出番にこだわったことが軍部主導の無謀に走らせたと言えよう。しかるに石原莞爾の総力戦思想は対米戦争を日本の最終戦争と位置付けていたのだが、その石原は最終戦争の蚊帳の外であった。

 帝国陸海軍は、その生い立ちから「薩・長」の対立構造があって薩摩の海軍、長州の陸軍という言葉によって代表される。それが日清戦争・日露戦争・第1次大戦を経て日中戦争・大東亜戦争に到り、陸海軍が一丸とならざるを得なくなったのが敗色濃き大東亜戦争末期であった。沖縄での本土防衛最終戦の如く、米海軍の徹底的な艦砲射撃による援護を受けた米陸軍や海兵隊が敢行した着上陸作戦のような戦い方は、日本の場合実に少ない。反面、休みを与えることなく戦いの前線に駆り出すことが士気高揚と戦意持続の要諦であるとする悪弊のため、帝国陸海軍の部隊、将兵には常時出番が作られていたと言えよう。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。