1853年7月、ペリー率いる黒船艦隊4隻が江戸前に侵入、艦砲で江戸城に向け空砲を発射して威嚇、日本に開国を脅迫した。知見が高ずれば、所謂砲艦外交と見るであろうが、海軍の儀礼や米国の独立記念日を知らない江戸の住人にとっては脅し以外の何物でもなかった。

 「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」と狂歌にあるが、この事件を日本国に対する脅威と受け止め、その対処に苦慮して眠れなかったのは、日本の人口の10%にも満たない武家の、それもごく一部であった。江戸の庶民は酒肴を持って猪牙舟を繰り黒船見物に出かけたというから、90%の百姓町民に安全保障意識が乏しいというのは今と変わらない。

 

 この軍事的事件は、250年にわたって眠っていた武士の本性を目覚まし、国外からの脅威に対抗する行動エネルギーは、事件当初の「尊皇攘夷」から「倒幕」、「欧米の先進文明導入」へと矛先を転換させ「明治維新」の引き金を引かせた。この時代、東アジアにおいては、王朝政治を敷いていた中国などの抵抗力が弱く欧米に蹂躙されていたことを顧みると、日本が独立を保ち得たのは、軍事的脅威に敏感に反応する習性を持っていた武家集団が国政を与かっていたことが幸いしたと言えよう。即ち、米・英・露など諸大国の脅威に対抗しつつ、江戸幕府の政権移譲と新政府への移行、富国強兵政策の成功、そして清、ロシア両大国相手の戦争に勝利するなど、大事を成した国の舵取りの原動力こそが、黒船来航後の半世紀において良き時代精神を培ってきた元武家集団の存在であった。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。