騙す写真 支配される「事実」

執筆者:徳岡孝夫2005年5月号

 同じニューヨークでも、摩天楼など一つもない。州の北部の静かな大学町を択んで、私は一年間を新聞学部の大学院に留学した。新潟並みに豪雪の降るところで、降り始めると校庭に美しい雪の風紋ができた。いまから四十五年前である。そのときの私は、すでに新聞記者として七年間の経験があった。浮世ばなれした思い出話を、しばらくお許しいただきたい。 戦後まだ十五年であったから、私のルームメイトをはじめ大学の内外で知り合う人は、みな戦争の記憶があった。 十二月七日の正午、寮の部屋で机に向かっていると、町にサイレンが鳴り渡った。「おッ。おい、鳴ってるよ」と、オハイオ出身のルームメイトが声をかけた。そう言われてはじめて私は、アメリカ人がまだパールハーバー(真珠湾攻撃)をリメンバーしているんだなと知った。 日曜日、久しぶりに箸を持ちたくて、寮の前を起点に下町へ行くバスに乗った。下町には中華レストランが二軒ある。カラのバスに乗って何気なく一番後ろの席に腰かけると、黒人の運転手が振り向きざま、凄い権幕で「そこはダメだ。もっと前に座れ」と怒鳴った。そうか、人種差別の国だったんだと、いっぺんに目が覚めた。 新学期の始業前日、各講座が広い体育館に机を置いて受講登録を受け付けている。留学生アドバイザー(教授)が写真の講座も取りなさいと勧めていたので、私は登録した。担任はドゥマレスト先生で、他の講座と違って彼だけがドクターでなく、ミスターだった。

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