変わる「靖国」の本質

執筆者:2005年7月号

「トージョー(東条英機)の墓はここにあるのか」。靖国神社を歩いていたら、外国人の観光客にこう聞かれた。墓はここにはない、どこかお寺にあるだろう、と言うと怪訝な顔をされた。A級戦犯が靖国神社に合祀されている、というのは、靖国神社に彼らの墓があることだと勘違いしている外国人が多い。中国や韓国の指導者層にもそう思っている人たちが少なからずいるのではないか。日本にさえ、勘違いしている人がいるだろう。合祀などというとおどろおどろしいが、A級戦犯ら十四人の名簿が靖国神社にあるということにすぎない。 靖国神社問題は、このところすっかり「A級戦犯問題」になってしまった。中国が激しく非難したためである。A級戦犯さえ分祀してくれたら、首相であれだれであれ、いくら参拝しても構わない、と中国が言うものだから、靖国神社問題の本質が見えなくなってしまった。首相の靖国参拝の是非は、本来、政治と宗教のあり方、すなわち憲法二〇条三項とのかかわりあいの中で論議されるべきものである。 憲法は言う。「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(二〇条三項)。首相や閣僚が参拝するのは、この項目に触れるのではないか、というのが本質的な靖国問題なのである。この議論をかわすために「私的参拝」という言葉が生まれた。私的であれば憲法に抵触することはないという判断のもとに何人かの首相は私的参拝を続けた。そのころマスメディアでは「公的」か「私的」かと参拝の性格規定の論議がかまびすしかった。「私的」であることを強調するために公用車を使用せず、また玉串料もポケットマネーから捻出した。

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