「南方には極彩色のオウムがたくさんいるんです。その日もオウムの家族がいてね。朝もやの海岸で歩哨に立っていた水木サンは、その様子があんまりきれいだから望遠鏡で見とれていたんです。そしたら、背後でパチパチという音がして、私以外、小隊十名は全滅しました」 水木しげるさんは、太平洋戦争中の一九四三年、二十一歳で南方の激戦地として知られるラバウル(現パプアニューギニア領ニューブリテン島)に二等兵として送られた。「戦争には内地と外地があります。外地でも野戦という敵と直に接触する前線が、一番運の悪い兵隊が行くところです。水木サンはそこにいました。とにかくぼやぼやしてると食えない、ぼやぼやしてると死んでしまう、それが最前線です」 連合軍の奇襲によって小隊が全滅した後、そこらじゅう銃弾が飛び交うジャングルをたったひとりで抜け出し、海に飛び込んで逃げた。たどり着いた中隊では、マラリアにかかり四十二度の高熱が十日間も続いた―― 八十三歳になった今、六十年も昔のラバウルの記憶はぼんやりしてきたという。しかし、次々と語られる体験を聴いていると、そんな目に遭った人が今もこうして生きているのが、ありえないことのように思え、言葉を失ってしまう。

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