ドイツ・ロマン派の時代

執筆者:大野ゆり子2005年8月号

「氷海」(一八二三―四)と題されたこの絵の風景は、見る者を安易に寄せつけない。自然が鋭角的に削り、折り重ねてしまった氷の壁は、突き刺さるように空を向く。荒涼とした風景には、生命の気配がない。画面右にやっとのことで氷以外のものを見つけた人は、それが難破船の船尾と知って、いっそう突き放された気持ちになるだろう。「叶わなかった希望」という別の絵のタイトルが、間違って二世紀近くも流布してしまったのも、寒々としたこの絵の印象を考えると頷ける。 この絵を描いたカスパール・ダヴィッド・フリードリッヒ(一七七四―一八四〇)は、ドイツ・ロマン派を代表する画家である。「日本におけるドイツ年」にあたって今年、東京、神戸で開催された「ベルリンの至宝展」では、ドイツ・ロマン派の作品が意外な人気を呼んでいると聞く。ロマンティック街道などの美しい古城やメルヘンの編纂から思い浮かぶ夢見るようなのどかなイメージとは裏腹に、この「ロマン派」の時代は経済的には産業革命、政治的にはフランス革命によって、それまでの価値観が根底から揺さぶられた混沌の時代であった。「大国ドイツ」という現代の視点からは判りづらいが、当時、国家として存在しなかった「ドイツ」人には、隣国フランスに対しての憧憬、劣等感が交錯する複雑な感情が存在した。ナポレオンが登場した時、革命思想の申し子として、自分たちの希望の星として、ドイツ市民は熱狂する。それだけに、自国フランスの大資本家の利益のために戦争する「皇帝ナポレオン」への落胆は大きかった。交響曲第三番「英雄」をナポレオンに献呈するつもりだったベートーヴェンが、皇帝即位の報を聞き、怒りのあまり総譜の表紙を二つに引き裂いたという逸話は、失望したドイツ市民の裏切られた思いをよく表わしている。

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