「京都の水害」と「秦氏の恨み」

執筆者:関裕二2013年10月10日
 京都の治水の要・葛野大堰。5世紀後半の遺構は、上流の川底で発見されている(筆者撮影)
京都の治水の要・葛野大堰。5世紀後半の遺構は、上流の川底で発見されている(筆者撮影)

 2013年9月、台風18号の影響で、京都を代表する観光地、嵐山一帯が被害を受けた。また、宇治川も増水し、下流の一部が浸水した。

 ニュースに頻繁に取りあげられた嵐山の中之島公園の惨状を見ながら思い浮かべていたのは、古代豪族・秦氏のことだ。

 あの中之島とやや上流の葛野大堰(かどのおおい)を造ったのは秦氏で、川の流れをふたつに分け、支流を造り出し、灌漑用水に用いたのだ。このため農地は広がり、土地は豊かになった。秦氏は、京都の生みの親といっても過言ではない。平安京の土地を所有し開墾していたのは秦氏だった。

 秦氏は朝鮮半島東南部の新羅からやってきた渡来系豪族で「秦の始皇帝の末裔」を自称していた。興味深いことに、嵐山一帯の秦氏の遺構が秦の時代の都江堰(とこうえん、四川省)とそっくりだという指摘がある。

 秦氏の祖が何らかの理由で中国から亡命し、朝鮮半島に留まった後日本列島にやってきた可能性は、否定できない。

 

巨大な水運ジャンクション

 今回の京都の災難は、京都の原初の姿が、亡霊のように現れたような事件だった。すでに忘れ去られてしまった「京都の成り立ち」が、水害によって、姿を現したのだ。

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