太平洋戦争の始まるまでスタルヒンだったピッチャーが、須田と改姓して西宮球場のマウンドで投げていた。私はそれを見た。当時は試合が五回か六回まで進むと、子供はタダで入れてくれた。須田は、遠目にも日本人とは異なる白皙だった。 英語は敵性語だから使ってはいけない。セーフはヨシ、アウトはヒケだった云々。六十年前の戦争を振り返って、いまの日本人は先祖の了見の狭さを嗤う。だがスタルヒンは投げ、巌本真理はバイオリンを弾いていた。 そのうえ敵性語を排斥したはずの国で、実は英字新聞が二紙、休刊日以外は一日も休まずに終戦まで発行され続けたのだ。 二紙とは「ニッポン・タイムズ」(現ジャパン・タイムズ)と「ザ・マイニチ」である。私はのちに後者にしばらく在籍し、英語で原稿を書いたことがある。 ただ発行しただけではない。「戦争が始まって、英文は肩身が狭かろうと、みんなにいわれたが、これは全く反対だった。部数も大いにふえたし、広告の申込みも処理しきれないほどであった」と、当時の英文毎日営業部長は語っている(『毎日新聞百年史』)。敵性語新聞の媒体としての価値は急上昇し、広告は抽選で載せたという、新聞社として最高に景気のいい話である。

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