我々は果たして正しい方向で発展してきたのか――一九九七年のアジア通貨危機のあと、バンコク市内のあちこちで、建設途中に放置されて廃墟となったビルを見ながら、イッティスーントーン・ウィチャイラック監督(四三)は考えた。 地球の反対側の文化を追い求めるあまり、タイ人らしさは失われつつある。もう一度、足元を見つめ直し、タイの良さを考えてもらうための映画を作りたい。そう考えていた監督がめぐりあったのが、ラナート奏者ソーン・シラパバンレーン師(一八八一年―一九五四年)の伝記だった。ラナートは「心を癒す」という意味を持つタイの伝統楽器で、船形の共鳴箱に音板がならぶ木琴である。 映画『風の前奏曲』は、ソーン師の青年期と晩年を行き来する形で、タイ文化の隆盛と存亡の危機を鮮やかに対比する。 ソーン師の若かりし頃、十九世紀後半のラーマ五世の時代には、王族がパトロンとなってラナートの競演会が開かれるなど、伝統芸能は黄金時代を迎えた。一方、ソーン師の晩年、ラーマ八世の時代は第二次世界大戦の頃にあたる。欧米列強の侵略を防ぐためには「未開の野蛮な国」と思われないことが重要と考えた軍事政権は、欧米化こそが文明化と誤信した結果、伝統文化を規制しようとした。このため、演劇は検閲され、許可証なしに公の場でラナートやソー(椰子の殻を使った三味線のようなもの)の演奏をすることも禁止された。

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