1989年のドラッカーが予見した未来

執筆者:田中明彦2006年1月号

 ピーター・ドラッカーが死ぬということはないのではないかと思っていた。日本経済新聞に「私の履歴書」が連載されたのは、今年(二〇〇五年)初めであったが、まだまだ元気なのだと思っていた。その連載でもドラッカー自らがいっていたように、彼は自分のことを「経営学」の専門家と見なしていたわけではない。もちろん、現代の経営に与えた影響が絶大だったことは筆者のような素人にもわかるが、彼の関心や著作の広がりと奥行きは、経営学者には失礼かもしれないが、とても一つの学問領域に収まるものではない。 筆者にとって特に印象ふかいドラッカーの著書は一九八九年に刊行された『新しい現実』(ダイヤモンド社)である。なによりも、この本でドラッカーは、ロシア帝国の崩壊を断言していた。一九八九年秋にベルリンの壁が崩壊し、一九九一年末をもって実際にソ連が解体したことを知っている現代の人間にとっては、一九八九年前半に出た本でロシア帝国の崩壊を言うことは、大したことではないと思うかもしれない。 しかし、当時のことを思い出してみるといいと思う。『新しい現実』の日本語訳の初版は、七月十三日付であるが、この時の世界の関心事は、ゴルバチョフの中国訪問直後におこった天安門事件であった。筆者の記憶でいえば、当時のソ連専門家とりわけ安全保障専門家のほとんどは、ソ連が崩壊することなどありえない、という前提ですべての物事を考えていた。

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