イスラエルのシャロン首相が一月四日の夜に脳卒中の発作を起こしてエルサレムの病院に搬入された。この時の各国メディアの扱いや各国首脳の反応は、シャロンがその政治生活の最終段階でついに絶頂期に達していたことを印象づけた。BBCやCNNはシャロンの入院するエルサレムのハダーサ病院前に常駐して細かな動きを実況中継し、各国首脳が和平への貢献を最大級に称える見舞いの声明を次々に出した。 シャロンはイスラエルとパレスチナの紛争のもっとも苛烈な部分を体現してきた人物である。それゆえに政治家としての経歴には傷も多い。最先端のエリートというよりは、「冷や飯を喰っていた」時期も長い。一九八二年のイスラエルによるレバノン侵攻が、それまでの四次の中東戦争とは異なる「不必要の戦争」との批判を受けて国論を二分した時には、国防相として非難の矢面に立った。その時、レバノンのキリスト教徒民兵「ファランジスト」が行なったサブラ、シャティーラ両難民キャンプでのパレスチナ人大量殺害への間接的な責任を問われて国防相を辞任し、政治家としての将来を失ったと一時は思われていた。だが、ネタニヤフやバラクなど先を越していった“切れ者”たちが次々に和平交渉とイスラエル内の政争で泥沼に足を取られていくのを待ち続け、二〇〇一年、ついに首相の座についた。

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