「鉄のカーテン」南端の街トリエステの復活

執筆者:竹田いさみ2006年3月号

 世界中の関心が、オリンピック一色のトリノに集まっている。イタリア北西部の都市トリノは、イタリア王国が一八六一年に統一された時の首都で、自動車メーカーのフィアット社が本拠地を置くことでも知られる。アルプス山麓の工業都市トリノ、ファッションの都ミラノ、そして貿易港で知られたジェノバ、トリエステ、ベネチアなど、イタリア北部には多彩な地方都市が点在する。 六十年前の一九四六年三月五日、英国のウィンストン・チャーチルが米国を訪問中、ミズーリ州フルトンで冷戦の幕開けとなった「鉄のカーテン」演説を行なった。この時、チャーチルがトリエステという地名を口にして以来、トリエステは冷戦史の舞台で一躍有名になった。 とはいうものの、世界遺産のベネチアには世界中から観光客が殺到するが、ベネチアのサンタルチア駅から直通の急行列車で二時間もかかるトリエステを訪れる観光客はあまり多くない。ローカル線を乗り継いでいくと三時間以上もかかる。 なぜチャーチルは、トリエステに注目したのであろうか。第二次世界大戦が終わると、米英陣営とソ連陣営はヨーロッパ大陸を分割する競争に明け暮れた。ソ連が西ヨーロッパへ触手を伸ばしていることを警告するために、チャーチルは「鉄のカーテン」がバルト海のシュチェチンからアドリア海に面するトリエステに下ろされたと発言したのである。つまり中欧や東欧がすべてソ連陣営の手に落ちることを示唆したものだ。ソ連の領土拡張を阻止するため、西側諸国による反共連合結成の主張は、後に北大西洋条約機構(NATO)として結実した。チャーチルの先見性や透徹した戦略論は、時代を超えて多くの人々を引き付けてやまない。

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