中国は長い間、自分たちが世界で1番優れているという中華思想(華夷思想)に浸り、冊封体制(近隣国との君臣関係)を敷いてきた。現代に至っても、国名にはっきりと「中華」の2文字が刻まれている。

 漢民族は隣接する他民族を野蛮人とみなすようになり、秦や漢の時代に優越感が結晶し、中華思想が出来したのである。

 

冊封を受けない道

 ただし、天子(皇帝)の徳を慕って来朝し、帰伏した者に対しては、寛大な待遇を示した。天子は冊書(文書)を与え、叙任し、君臣関係を結び、それぞれの地域の支配者であることを認めた。これが、冊封体制であった。

 朝鮮半島だけではなく、古代日本も、中国の冊封体制に組み込まれていた。『後漢書』には、建武中元2年(57)、倭の奴国が使者を遣わし、貢物をささげて挨拶に来たこと、光武帝は倭の奴国王に印綬(印と紐)を授けたと記録される。さらに3世紀、邪馬台国の卑弥呼は、魏に朝貢し、「親魏倭王」に封じられた。

 5世紀になると、倭国王は南朝の宋(420-479)に朝貢し、爵位を求めた。彼らが、いわゆる倭の五王だ。宋は北側の北魏を敵視していたから、包囲網を形成しようと考え、高句麗や百済など朝鮮半島の国々を重視した。けれども、海の向こうの倭国には、高い関心を示さなかったようだ。倭国王が期待していた高い位の称号は、なかなか得られなかった。倭の五王最後の武王は5世紀後半の雄略天皇と考えられている。武王は高句麗の王と同等の称号を要求したが、夢はかなわなかった。

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