外交政策はめまぐるしく移ろうものだ。昨日の友は今日の敵ということが、しばしば起こる。

 古代の朝鮮半島とヤマト政権の関係も、複雑怪奇だった。朝鮮半島は、4世紀末から7世紀にかけて混乱が続いた。騎馬民族国家高句麗の南下、中国王朝の領土欲に苦しみ、隣国同士の抗争に明け暮れたのだ。半島国家が抱える地勢上の悲しい宿命であった。

 もっとも、朝鮮半島南部の国々は、手をこまねいていたわけではない。競って日本でロビー活動をくり広げ、ヤマト政権も、これに応えた。5世紀には、高句麗の南下を阻止すべく、大軍を朝鮮半島に送り込んでいる。この時代、朝鮮半島から先進の文物と技術者が日本に流れ込んだのは、「半島での優位性を保つには日本を味方につける必要がある」と考えたからだろう。

 

日本に対する「ロビー活動」合戦

 朝鮮半島南部では、6世紀に伽耶(小国家の連合体)が滅亡し、後進国だった南東部の新羅が急速に発展し、逆に先進地帯だった南西部の百済は、次第に衰退していった。

 このあたりから、朝鮮半島内部の抗争は激化し、生き残りを賭け、日本に対するロビー活動は活発化していく。たとえば百済は、王子を人質として日本に差し出すなど、必死に関係強化を図った。

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