あの文革から四十年 鮮明すぎて困る記憶

執筆者:徳岡孝夫2006年8月号

 四十年という歳月は、長いようで短い。私はそう痛感したことがある。一九八一年の十二月、ハワイまで「パールハーバーから四十年」を取材に行ったときである。インタビューした人々は、四十年の昔を、きのうのことのように憶えていた。 日本の雷撃機が一列になって真珠湾に突っ込む空域に、たまたま飛行機操縦仮免許の父親と一緒に、セスナに乗って居合わせた少年がいた。第一報を聞いて真珠湾へ駆けつけた地元紙の社会部長。戦艦オクラホマの士官室でネクタイを締めていた海軍少尉。ドック入りした重巡洋艦から一部始終を見守った水兵。真珠湾内を浚渫作業中だった日系二世等々がいた。 五十年のときは取材に行かなかったが、報道で見た範囲では人々の記憶も薄らぎ、語るべき人そのものが死んだり行方知れずになっているようだった。私は「四十年が限度だ」と思った。 ところで今年は、文化大革命のアラシが大陸に吹き出して四十年になる。毛沢東はみずから大字報「司令部を砲撃しよう」を貼り出し、大学・中学・小学校の学生・生徒を「紅衛兵」と名付けて町に放ち、奪権闘争を開始させた。四十年前の、ちょうど今頃のことである。 中国政府ないし中国共産党の報道官が何か言うかと私は待っているが、これを書いている時点では何もない。いったい彼らは、あの「狂気の十年」を肯定するのか否定するのか? 大騒動は一九七六年九月九日、重陽の節句に毛沢東の死をもって終わった。

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