蘇我稲目と「2人の高句麗妻」

執筆者:関裕二2014年9月10日
 公開された都塚古墳
公開された都塚古墳

 階段ピラミッドのような奇妙な古墳が出現した。奈良県高市郡明日香村の都塚(みやこづか)古墳だ。

 蘇我馬子(そがのうまこ)の墓と思われる石舞台古墳の東南400メートルの高台にある。6世紀後半の築造で、一辺40メートルを超える大形方墳ということもはっきりした。発掘調査をした明日香村教育委員会と関西大考古学研究室が、先月発表した。

 墓の主は蘇我馬子の父・蘇我稲目(いなめ)であろう。根拠はいくつかある。まず、築造の年代があっている。さらに、この一帯が蘇我氏とゆかりの深い土地であること。そして、階段状の墳墓は高句麗の様式と思われるが、蘇我稲目のふたりの妻は、高句麗から渡来したことなどからだ。

 

危機と発展

 蘇我氏繁栄の基礎を築いたのは、蘇我稲目だ。欽明天皇に娘ふたりを結びつけ、外戚の地位を確立し、華々しい閨閥を形成していった。ところが、『日本書紀』の蘇我稲目をめぐる記事は事務的で淡々としていて、華々しい活躍が見当たらない。

 宣化元年(536)に大臣に任ぜられ、欽明13年(552)仏教公伝に際し、ひとり仏像を祀ることを許された。ところが排仏派に迫害され、寺と仏像を棄て焼かれた。その後、屯倉(王家の直轄領)の設置に邁進し、同23年、高句麗の女性ふたりを妻とし、同31年に薨(こう)じた……。蘇我馬子、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と比べれば、情報量が圧倒的に少ない。これは、意図的な隠蔽ではあるまいか。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。