『モスクワにかける虹――日ソ国交回復秘録』松本俊一著朝日新聞社 1966年刊 ちょうど五十年前の十月十九日、モスクワで「日ソ共同宣言」が調印された。その発効をもって日ソ間の「戦争状態」には終止符が打たれ、両国間には外交関係が回復されたのだから、それは、素直に考えると慶賀に値する記念碑的文書のはずだが、現実の日ソ、日露関係の中ではむしろいくども解釈摩擦の種となってきた代物である。この「共同宣言」誕生までの経緯を明らかにしたのが本書である。 著者・松本俊一は、当初は駐英大使として日ソ関係変化の兆しを嗅ぎつけ、やがて退官、国会議員(つまり政治家)として日ソ交渉の全権を務めた。その関与期間は、一九五五年六月開始のいわゆる第一次ロンドン交渉の準備から五六年十月妥結の第二次モスクワ交渉まで、約十七カ月に及んだ。文字どおり日ソ国交回復過程の生き証人的な存在だった。その人物によって十年後に書かれた本書は当時から大変評判を呼んだし、今日なお、戦後外交史学徒にとっては必読の文献となっている。 いまなお日露間で未解決の北方領土問題の起源は、第二次大戦終結前後にスターリンが択捉、国後、色丹、歯舞(群島)の四島までもを占領したことにある。この問題は、一九五一年のサンフランシスコ対日講和会議時に日ソ間で見解不一致が露呈したあと、手がつけられないままに残っていた。五四年十二月の鳩山一郎民主党首班の誕生が、この停滞を破るきっかけとなった。自分が先に首相になるつもりでいた鳩山は、自分の公職追放中にサンフランシスコ平和条約と日米(旧)安保条約の締結という大仕事をやってのけた吉田茂への対抗心から、手つかずの日ソ平和条約の実現に執念を燃やした。五二年十二月、追放解除後の政界復帰第一声で彼が日ソ国交回復の必要を語ったことが、それを裏づける。

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