ほとんど四半世紀前のことだが、京都にある大学の探検部員だった私は、仲間と6人で西アフリカのニジェールへ渡り、サハラ砂漠南縁の「サヘル」と呼ばれる乾燥帯に暮らす遊牧民の生活に密着する計画を立てた。1年近い準備の末、1991年2月1日に出発する予定だったのだが、出発まで半月を残すだけとなった1月17日、多国籍軍によるイラク空爆が始まった。湾岸戦争である。戦争の舞台はサダム・フセインのイラクと、フセインが前年の8月に侵攻していたクウェートだった。周辺国のイスラエル、サウジアラビア、バーレーンに対しては、イラク軍による若干の攻撃があった。

 

「イスラム圏は危ないのでは?」

 予定通り出発するつもりでいたところ、出発直前になって、大学の教職員、そして学生の間からも、私たちに渡航自粛を求める声が出始めた。渡航計画は大学公認の部活動の一環であり、大学が渡航を認めないのであれば、渡航を中止するか退部して個人の資格で行くしか道がなくなる。

 そもそも私たちは、イラクに行こうとしていたのではなかった。多国籍軍には30以上の国が名を連ねており、ニジェールはそのうちの1国ではあったが、多国籍軍の主力は言わずもがな米軍であり、ニジェールの参加は形式的なものだった。出発前にニジェール側の協力者や首都ニアメの在留邦人に電話で開戦後の現地情勢を尋ねたが、当地は平穏そのものであり、湾岸戦争など別世界の話のようだという答えだった。しかし、そうやって説得を試みても、出発反対派は「危ないのではないか」と一様に不安な表情を見せるのだった。

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